2017年5月28日  昇 天 主 日  使徒言行録1章1〜11
「イエス 天に上がられる」
  説教者:高野 公雄 師

  《1‐2 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。》
  ルカ1章3にも《敬愛するテオフィロさま》と献呈先が書かれていて、先に著した第一巻とは「ルカによる福音書」であり、それに続く第二巻がこの「使徒言行録」であることが分かります。一巻目のルカ福音書は復活したイエスさまの昇天で終わり、二巻目の使徒言行録はその昇天で始まります。復活したイエスさまの昇天が一巻目と二巻目の橋渡しをしています。

  《3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」》
  イエスさまが復活してその姿を弟子たちに現されたのは、1回だけのことではなく、40日にわたって弟子たちにその復活の姿を現されたのです。ですから、イエスさまの復活の出来事を、愛する人を失った人が見た幻のように説明する人は、まったく間違っています。40日間にわたって、復活したイエスさまはその姿を弟子たちに現し、弟子たちを教えられたのです。この40日間にわたる交わりこそが、主イエスの勝利と主イエスを神の子・キリストと信じる信仰を、弟子たちに確かなものとさせたのです。
  復活したイエスさまはただその姿を現されただけではなくて、弟子たちに《神の国について話された》とあります。しかし、何を話されたのか記されていません。イエスさまは、それまでに語られたこととは異なる何か新しい教えを語られたのではなく、すでにルカ福音書において告げられた教えを、復活の主として宣べられたのです。
  そして、復活したイエスさまは弟子たちにこう命じられました。《エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである》。これは明らかに、主イエスの昇天の後に起きたペンテコステ(聖霊降臨)の出来事を指しています。主イエスによる救いのみ業は、十字架・復活で終わったのではなくて、聖霊降臨の出来事へとつながり、教会の時代、キリスト者としてのわたしたちの日々の歩みへと続いているのです。この聖霊降臨の出来事へとつながるためには、すなわち、目に見ることのできない聖霊というあり方でわたしたちと共におられるためには、その前に主イエスは天に昇られなければならなかったのです。

  《6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」》
  この復活したイエスさまとの交わりの中にあって、弟子たちの内に、かねてから抱いていた期待が大きく膨らんできたのでしょう。弟子たちは一緒になって集まり、主イエスに問います。《主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか》。弟子たちは、今がさまに神の国実現の時、この地上にイスラエル民族の国家としての繁栄、栄光が回復される時なのではないかと思ったのです。主イエスはこの弟子たちの問いに対して、イエスかノーかでは答えず、まずは《父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない》、と答えられました。父なる神の計画はわたしたちが考えたり想像したりする範囲を超えているので、わたしたちはそれを知ることはできません。神はわたしたちを救うために最善の計画と時とを考えておられます。ですから、すべてを定められる父なる神に喜んですべてを委ね、神に従っていくのが信仰者の歩みです。
  しかし、主イエスはその父なる神の定められた時まで、使徒たちに何をなすべきかを告げられます。《あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる》。聖霊が降るというペンテコステの出来事により、弟子たちは力を受けて、主イエスの証人として、エルサレムからユダヤへ、サマリアへ、そして全世界へと遣わされて行く、というのです。これは、弟子たちが期待した、地上のイスラエルの復興とは大きく異なります。神が計画されているのは、弟子たちの思いを大きく超えて、地の果てにまで主イエスの福音が伝えられる中で神の支配が広がり、神の国が建てられることです。この主イエスのお言葉どおり、聖霊が降り、弟子たちは主イエスの証人として、主イエスの十字架と復活の福音を宣べ伝える者として遣わされて行ったのです。その様子が、この後の使徒言行録で語られていきます。この主イエスが告げられた使命を受け継いて、この主イエスの証人として遣わされる者の群、それがキリストの教会です。わたしたちは主イエス・キリストの証人として立てられた者の群なのです。

  《9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」》
  主イエスはペンテコステの出来事を予告され、そして弟子たちが見ているうちに、天に上げられて行きました。この光景は、まことに不思議なものです。ただこの昇天という出来事は、復活の主イエスにおいて起きたことなのです。わたしたちは十分にこのことについて説明できません。しかし、この昇天という出来事がわたしたちに示していることは、主イエスの復活というのは、単なる肉体が生き返ったということではないということです。主イエスの復活は、死を打ち破り、復活の体という永遠の命の体をもって甦られたということなのです。それは、神の独り子としての栄光であり、まことの神としての栄光の体なのです。ですから、主イエスの昇天という出来事は、主イエスが誰であり、復活とはどういうことであるかを、わたしたちに明らかに示す出来事となるのです。
  復活したイエスさまは、その復活の体をもって天に昇られました。このことについて使徒信条は、「主は・・・天に上られました。そして、全能の父である神の右に座し・・・」と告白しています。主イエスが復活の体をもって天に昇られたということは、天において、父なる神と共に、父なる神のように、すべてを知り、すべてを支配されているということを示しているのです。また、そのような方が神とわたしたちの間に立って、わたしたちを父なる神に執り成してくださるということです。
  主イエス・キリストは今どこにおられるのでしょうか。復活の体を持つ方としては天におられ、父なる神と共に、同じ力、同じ権威をもって、すべてを支配しておられます。そして、主イエスはその全能の力、まことの愛をもって、ご自身の霊である聖霊を注ぎ、聖霊としてわたしたちと共にいてくださる方となったのです。
  この主イエスの昇天の出来事に立ち会った弟子たちはただ、主イエスが昇って行かれ、栄光の雲に覆われて見えなくなった天を見つめるばかりでした。そこに、《白い服を着た二人の人》が現れて、弟子たちに、《主イエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる》と告げます。主イエスが昇天されたことを覚えるということは、主イエスが再びそこから来られる、再臨されるということを覚えるということになるのです。
  主イエスが再び来られるのは、神の独り子、まことの王、まことの主としての栄光を持つ方として来られるということです。それは、使徒信条が言うとおり、「生きている人と死んだ人とを裁かれ」るお方として来られるということです。その日、すべての罪を赦されたわたしたちは、主イエスと同じ復活の体を与えられ、永遠の命に生きる者とされるのです。イエスさまの昇天は、わたしたちもまた天に招き入れられるというわたしたちの将来の姿を示す出来事でもあります。その喜びに満ちた日を待ち望みつつ、この一週もキリストの証人として、それぞれの場において生かされて行きましょう。


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