2017年6月4日  聖 霊 降 臨 祭  使徒言行録2章1〜21
「聖霊が降る」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。》
  主イエス・キリストは十字架の上で死なれ、三日目によみがえられました。そして、40日にわたって、復活された姿を弟子たちに現されたのち、天に昇り、弟子たちから離れ去りました。しかし、イエスさまは天に昇られる前に、弟子たちに《あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる》(1章15)、と約束されました。弟子たちがこの約束を受けたとき、その意味はよく分からなかったでしょう。しかし、彼らは一つになって祈って待ちました。そして、10日後、ついに弟子たちの上に聖霊が降ったのです。聖霊降臨の日は、「五旬祭」(原語はペンテコステ、「50番目」という意味)と訳されていることから分かるように、過越祭から50日目の日に祝う旧約以来の祭りでした。
  もともと、五旬祭は初夏の麦の収穫を祝う祭りでした。しかし、後にはシナイ山において律法が授与された日と考えられるようになっていたのです。聖霊降臨の出来事が五旬祭と重なっているのは偶然ではありません。五旬祭に十戒を与えられて、神の民イスラエルが誕生したように、新しい神の民であるキリストの教会は聖霊を注がれることによって誕生したということを示しているのです。このことは、今も変わりはありません。キリストの教会は、聖霊を注がれ続けることによって、キリストの体なる教会であり続けているのです。そして、わたしたちキリスト者は、聖霊を注がれ続けることによってキリスト者であり続けているのです。わたしたちは、自分の力で信仰を守ることによって、信仰者であり続けているのではありません。聖霊なる神が働いてくださり、わたしたちの「あるかなきかの信仰」を支えてくださることによって、信仰者であり続けているのです。その意味で、ペンテコステの出来事は二千年前の昔話ではなく、現在も起き続けていることなのです。
  では、ペンテコステの日に起きたこととはどのような出来事だったのでしょうか。この日、弟子たちが一堂に会して祈っていると、《突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた》。激しい風が吹いて来るような音が、聖霊が来られるしるしとして聞こえました。《そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった》。これは目に見える聖霊が来られるしるしでしょう。神からの炎が、弟子たち一人一人に、舌となって、つまり「語る」力として与えられたのです。「すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」、とあります。聖霊に満たされて、弟子たちは他の国の言葉で語り出しました。

  《5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。》
  この五旬祭の日、エルサレムには多くの巡礼者が来ていました。その人々に通じる言葉で弟子たちが語り始めたというのです。このことは、その後キリストの弟子たちが世界中に出て行って、主の福音を全世界の人々に分かる言葉で語ることになることを先取りしていることでした。人々は、驚き怪んで言います。《話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちはめいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか》。
  そして聖書には、そこに集まった人々が、どのような国からやってきたかが記されています。パルティア、メディア・・・と始まって、ローマ、そしてクレタ、アラビアまで。多くの地名が出てきます。そして大事なことは、これらの地名は、当時知られていた世界のほとんどすべての場所だということです。それは《天下のあらゆる国》と表現されていることからも分かります。当時の人が知りうる限りの、全世界のあらゆる国から来た人がエルサレムに集まっており、それぞれの国の言葉で、《神の偉大な業》を聞いた、というのです。
  同じように弟子たちの言葉を聞いた人の中に、「神の偉大な業が語られている」と思った人もいれば、《あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ》と、あざける者もいました。同じことは今も起ります。どんな言葉、どんな証し、どんな説教を聞いても、聖霊の働きがなければ、そこに語られている福音も信仰も伝わらないのです。しかし聖霊が働いてくださるなら、言葉や文化や生活習慣がどんなに違っていても、その違いは乗り越えられて、神の偉大な業が伝わっていき、神のみ業が実現するのです。

  《14 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。16 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。17 『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。18 わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19 上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』》
  弟子たちを通してさまざまな国の言葉で語られたことは驚くべき出来事ですが、そのときに話された内容こそはもっと大切なことです。このときのペトロの説教が、14〜36節に記されています。これがキリスト教会最初の説教と言って良いでしょう。この説教には、その後のキリスト教会が二千年にわたって語り続けてきたことの原型があります。
  ペトロは、21節までの所で、まず「新しいぶどう酒に酔っているのだ」という批判に応えます。その際ペトロは、旧約のヨエル書を引用しています。この旧約を引用して語るというあり方は、22節以下においても同じです。それは、イエスさまによってもたらされた救いが、旧約の預言の成就であり、神の大いなるご計画の中にあるものだということを示そうとしているわけです。イエスさまはまことの神の御子であり、救い主・メシアですが、このことも旧約以来の預言の成就であって、弟子たちの勝手な憶測ではないということを告げているのです。
  17〜21節にヨエル書3章1〜5(口語訳と新改訳では2章28〜32)が引用されます。《神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し・・・》。この預言の成就として、今、自分たちは聖霊を注がれて預言しているのだ。酒に酔っているのではない。そうペトロは論じているわけです。
  ペトロは預言したのです。主の霊を受けた者は預言するのです。わたしたちキリスト者がする預言とは、イエスさまとは誰であり、イエスさまは何を為され、それによってわたしたちに何が起きたのか、何が与えられたのか、そのことを告げることです。キリストの教会は預言する者の群れなのです。   そして、そのことは、ヨエルが預言したように、「終わりの時」に起きることです。つまり、もう「終わりの時」は始まっているのです。「終わりの時」とは神の最終的な裁きの時です。この「終わりの時」が始まったのですから、《主の名を呼び求める者は皆、救われる》、と言われているように、主の名を呼び求めよ、神に救いを求めよ、ペトロたちはそう告げているのです。
  もう終わりの時が始まったという、この感覚はすべてのキリスト者に与えられているものでしょう。この終末感が、わたしたちの生き方を決定づけていると言っても良いと思います。神のみ前に生きるということです。ヨエル書の言葉で言うならば、「主の名を呼び求める者」として生きるということです。


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