2017年5月7日  復活後第三主日  ヨハネによる福音書10章1〜16
「イエスは良き牧者」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。2 門から入る者が羊飼いである。3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」》
  パレスチナでは、一つの村の羊は共同の囲いに入れられている場合が多かったようです。その共同の囲いの門番は、顔見知りの羊飼いたちだけに門を開き、羊飼いは門から囲いに入り、《自分の羊の名を呼んで》、多くの羊の中から自分の羊だけを連れ出します。羊も自分の羊飼いの声を聞き分けて、その人だけについていきます。ですから、《門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である》ということになります。
  羊飼いは朝ごとに門から囲いに入って、自分の羊たちを牧草や水のあるところに連れ出して命を養います。それに対して羊泥棒は、夜ひそかにやって来て、塀を乗り越えて囲いに侵入し、羊たちを奪い殺します。
  1〜5節は、このような現実の羊飼いの仕事ぶりを比喩として用いて、イエスさまと敵対するユダヤ教指導者たちを対照しています。神の民の指導者を羊飼いにたとえる語り方は、イスラエル古来の伝統です。

  《6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。》
  イエスさまは、この羊飼いと盗人のたとえをファリサイ派の人々に解き明かします。すなわち、復活したイエスさまの本質の二つの面を告知します。一つは「わたしが門である」(7〜10節)という面、もう一つは「わたしが良い羊飼いである」(11〜18節)という面です。
  1〜5節は、羊飼いと盗人の違いを示すための比喩ですが、まず、その比喩にあった門が取り上げられ、復活したイエスさまこそが《羊の門》、すなわち「羊たちが出入りするための門」であるとされます。
  門は朝に開かれ、夕方に閉じられます。ですから、朝に門が開く前に、門を通らないで塀を乗り越えて囲いに入ってくる者は羊泥棒です。復活の主イエスこそがその門であれば、朝に門が開く、すなわちイエスさまが復活される前に、羊たちのところに来る者はみな、羊泥棒です。また、《わたしより前に来た》は、必ずしも時間的な意味ではなく、「復活という終末的な出来事と無関係に」来たという意味に理解することができるでしょう。
  旧約の預言者たちは、彼らの預言が復活の主イエスにおいて成就したという意味で、復活という終末的な出来事にあずかっており、門を構成する一部とみなされ、《門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者》には入りません。それに対して、ヨハネの教会に対立するファリサイ派ユダヤ教会堂は、復活の主イエスを拒否することで、自分たちが門を通って入ってきた者ではなく、《門を通らないで、ほかの所を乗り越えて来る者》であることを示しています。
  盗人が来るのは、羊を盗み、屠り、滅ぼすためですが、羊飼いが羊たちのところに来るのは、羊を牧草地や水辺に導いて、羊たちを豊かに養うためです。すなわち、イエスさまが復活した主イエスとして世に到来しておられるのは、主に属する民が主によって《いのちを得るため》です。この「いのち」は「永遠の命」を指しています。そして、「永遠の命」を与えることが、この福音書の中心使信です(3章16、20章31)。

  《11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。》
  この「良い羊飼い」という表現は、「真の、唯一の羊飼い」という意味を含んでいます。復活したイエスさまがそのような「真の、唯一の羊飼い」であるのは、イエスさまが神の民のために御自身の命を捧げられたからです。イエスさまの十字架の死は、神の民が永遠の命を得るために御自身の命を捧げられた出来事です(3章16)。そのことが、《良い羊飼いは羊たちのために自分のいのちを捨てる》と語られます。この比喩はけっして誇張ではなく、イスラエルの羊飼いは羊を狙う野獣と命がけで戦って羊を守りました(サムエル上17章34以下参照)。イエスさまは神の民のために御自分の命を投げ出して、「真の羊飼い」であることを示されました。
  神の民の指導者をもって任じているけれども、実は民のために身を捨てて仕えるのではなく、民を食い物にして自分の益を図る偽りの指導者は、「悪い羊飼い」、「偽の羊飼い」です。イエスさまは、ローマの権力を恐れ自分の地位の保全のために民を見捨てる大祭司を初めとする神殿の祭司階級(11章47〜50)を「雇い人にすぎない者」と弾劾されます。
  「良い羊飼い」である復活の主イエスは、御自身に属する民を一人ひとり知っておられ、民もイエスさまを自分の救い主として知っていることが、父と子であるイエスさまの交わりと同質であるとされ、《父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである》と述べられます。この「知っている」は、相手について様々な情報を持っているという意味ではなく、人格間の交わりと結びつき、すなわち愛を内容としています。そして、わたしが自分の羊たちを、父が自分を知ってくださっているように知っている、すなわち愛しているのであるから、「だから」という気持ちで、《わたしは、羊たちのために自分の命を捨てる》と続きます。

  《16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。》
  ここで、この「良い羊飼い」に属する羊たちの範囲について大切なことが語られます。《この囲いに属さないほかの羊たち》というのは、「律法」という囲いの中にいない民、イスラエルという契約の民に属さない異邦諸民族の中にいる神の民を指しています。
  「この囲い」、すなわち「律法」という囲いの中にいる民ユダヤ人は、律法(契約)を成就するために来られた自分たちのメシアの声を聞き分けるのが当然です。ところが、その声を聞き分けることができたのは少数でした。それに対して、その囲いの外にいる多くの異邦人が、イエスさまの声を聞き分けて、この復活の主イエスこそ自分たちの救い主であり、命への導き手であるとして、イエスさまに従ったのです。こうして、囲いの中の羊たちと囲いの外の羊たちが融合して、同じ《一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる》ことが課題になってきました。
  ところで、ここで《一つの群れになる》と言われて、「一つの囲いとなる」とは言われていないことが注目されます。ここでの「囲い」はモーセ律法に基づくユダヤ教という宗教ですが、視野を広くして見れば、今日のキリスト教会は、数え切れないほどの教会に分かれていて、それぞれが民を囲い込む「囲い」となっています。その中のどれかが、他の教会を吸収したり支配して、一つの教会にしようとする努力は、争いと戦いをもたらすだけで有害無益です。復活の主イエスに属する民がなすべきことは、自分たちが聞いている真の牧者の声を響かせて、「他の囲い」の中にいる人たちがそれを聞くことができるようにすることです。その声が、囲いを超えて一つの群れを形成します。また、世界の諸民族は様々な宗教の囲いの中にいますが、大事なのは囲いそのものでなく、その囲いの中の一人ひとりがどれだけ真の牧者との交わりを深めるかです。囲いはそのままであっても、それぞれの囲いの中にいる民が、真の牧者である復活の主イエスの声を聞き分けて、その方の羊として従えばよいのです。イエスさまは世の終わりには、必ず、「他の囲い」の中にいる人たちも「一人の牧者、一つの群れ」へと導いてくださるでしょう。



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