2017年4月2日  四旬節第五主日  ヨハネによる福音書11章17〜53
「ラザロのよみがえり」
  説教者:高野 公雄 師

  ヨハネ11章では、ラザロのよみがえりの物語を通して、イエスさまが与える「命」が語られます。とても長い物語で、聖書は五つの小見出しを付けて段落を分けています。この説教録では、聖書本文の引用は、この個所の解き明かす上で大事だと思われる個所だけに絞っています。

1.ラザロの死(1〜16節)
  エルサレムに近いベタニア村にマルタとマリアの姉妹がいました。その兄弟ラザロの病状が重くなったので、《3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。・・・7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」》。
  この段落では、病気のラザロが死で終わらないこと、また、《神の子がそれによって栄光を受ける》ためには、イエスさまがユダヤへ行かなければならないことが示されます。ラザロを生かすためには、イエスさまが死ななければなりません。ラザロのよみがえりとイエスさまの死は結ばれているのです。

2.イエスさまとマルタとの対話(17〜27節)
  マルタはイエスさまに、《24 終わりの日の復活の時に復活することは存じております》、と言います。ところがイエスさまはマルタに、《25 わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる》と告げます。つまり、「今この時に」ラザロがよみがえると言うのです。イエスさまが「今ここにおられる」こと、そのこと自体がよみがえりをもたらすことを告げます。ここでマルタは初めて、復活が「終わりの出来事」ではなく、イエスさまを「神の子キリスト(メシア)」と信じるときに、その場で起きることを悟ります。ラザロの「よみがえり」は、まさに「復活」を証しする「しるし」なのです。ラザロの肉体は、よみがえってもやがては朽ち果てます。ですから、彼の「今の時の」よみがえりは、彼が「終わりの日に」よみがえることを証しすると同時に、彼が「今受けている」霊的な命は「決して死なない」ことへの「しるし」でもあるのです。このように、ラザロのよみがえりは、「復活とは何か」を語っているのです。
  25〜26節のイエスさまの言葉をもう一度、振り返ってみましょう。
(A)わたしは復活であり、命である。
(B)わたしを信じる者は、死んでも生きる。
(C)生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。
  (A)でまず、イエスさまご自身の臨在が、それ自体でよみがえり/復活の命をもたらすと語ります。しかし、ここでは、復活がいつのことなのか、命には肉体的な存在も含まれるのかどうかは語られません。
  (B)では、イエスさまを信じる者は、たとえ肉体的に死んでも生きるとあって、ここで終末に復活する、と知らされます。これは24節のマルタの復活信仰と同じです。ところが、この「死んでも生きる」は、ラザロが「今この時に」おいて「肉体的にも」よみがえることも含んでいるのです。この二重の「よみがえり」を通して、ラザロの現在での肉体的なよみがえりが、終末における復活の「しるし」となることを表わしています。イエスさまの臨在は、ラザロの肉体にも働きます。
  (C)では、その上で、今この時において、肉体的な存在として、イエスさまを信じている者は、「この世でも来るべき世でも」、霊的な意味において死ぬことがないと言われています。
  イエスさまは、「信じる者には今この時からよみがえりの命が始まる」と言ってから、マルタに《26 このことを信じるか》と問いかけています。しかし、《わたしを信じる者はだれも》とありますから、これはイエスさまが、すべての人に、したがってわたしたちにも問いかけているのです。

3.イエスさまとマリアとの出会い(28〜37節)
  マリアは、マルタからイエスさまの到着を知らされて、急いで迎えに行きます。マリアがイエスさまを見るなり足もとにひれ伏して泣き、一緒に来た人たちも泣いて死者を悼むのを見て、《35 イエスは涙を流され》ました。

4.ラザロのよみがえり(38〜44節)
  この段落は、イエスさまがマルタ、マリアその他の人々とともに墓に来て、墓に葬られてすでに四日もたっているラザロに、《43 ラザロ、出て来なさい》と大声で叫んで、よみがえらせる様子を記しています。
  ここで語られるラザロの身体的なよみがえりは、マルタが24節で告白した「終わりの日の復活」とは対照的な出来事です。ここでは、イエスさまによる「復活のみ業」が、現在すでに生じつつあると言っているのです。イエスさまが《神の国は近づいた》(マルコ1章14節)と言うときの「近づいた」も「すでに始まっている/来ている」の意味を含みます。ですから、ラザロが墓から出てきたことは、ただ身体的に蘇生しただけではなく、イエスさまの臨在と救いがそこに実現していることの「しるし」だと理解することが大事です。

5.イエスを殺すための最高法院での決定(45〜57節)
  ここからラザロのよみがえりに続く最高法院の場に移ります。この場面は、ラザロのよみがえりの結びになると同時に、ここでイエスさまの処刑が正式に決定されるので、受難物語の始まりともなります。
  イエスさまのみ業を目撃した人の多くはイエスさまを信じました。《46しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ》。
  ユダヤ人の指導者たちの登場は、はっきりとイエスさまの死と結びつけられます。《50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか》。この大祭司カイアファが語る言葉は、イエスさまの受難の意味を見事に言い表わしています。ラザロがよみがえりへ向かう道は、同時にイエスさまが死に向かう道であることが、このようにして明らかにされます。イエスさまは、《52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ》のです。ラザロのよみがえりは、イエスさま自身の死と重なっています。
  ここには、ヨハネ独特の皮肉がこめられています。なぜなら、イエスさまを十字架刑に処したことで、その結果、彼らが避けようとしたまさにそのことが、彼らに降りかかることになって、紀元70年にエルサレムはローマ軍によって破壊され、ユダヤ民族は離散し、貴族階級は滅亡し、しかもイエスさまへの信仰は、なおいっそう広まったからです。
  カイアファは、イエスさまが十字架にかかる最も重要な《その年の大祭司》でした。大祭司の最も重要な職務は、大祭司だけが、年に一度神殿の至聖所に入り、民全体の罪の贖いのために、贖罪の献げ物を捧げることでした。今この職が、イエスさまの十字架の贖いによって「廃止」される時が来ているのです(ヘブライ9章6〜14)。大祭司としてのカイアファの口から出た「預言」の意味も、このことを考えるとよく分かります。
  イエスさまは、確かに「民のために」死にます。それは、《独り子を信じる民がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため》(3章16)です。これはユダヤ人だけでなく、すべての人にとって益になることであり、みんながそのことで助かる出来事です。だからここでの《好都合》には、政治的に見て「都合がよい」「利益になる」「うまくいく」という意味と、「みんなのためになる」「みんなが救われる」という霊的・神学的な意味が重ねられているのです。
  ここでヨハネ福音書は、大祭司の口を通して、イエスさまの受難が「民のため/代わり」であり「すべての神の子たち」のためであると語っています。こうすることで、受難の意味を神学的にはっきり示すのです。


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