2017年5月14日  復活後第四主日  ヨハネによる福音書14章1〜14
「わたしは道である」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。》
  最後の食事の席でのことです。弟子たちはイエスさまの話すことを理解することはできません。しかし、イエスさまが自分たちを後に残して去って行こうとしていることは分かり、自分たちはどうなるのだろうかと不安に陥り、心を騒がせます。そこで、イエスさまは語りかけます、「神を信じ、わたしを信じていなさい。そうすれば、わたしが去った後も、わたしがあなたたちと一緒にいる今以上に、力強く歩むことができるようになるのだ」と。
  イエスさまは「場所を用意しに行く」と言われます。すなわち、これから受ける十字架の死と復活を、弟子たちが父の家に入ることができるようになるための準備だと言われます。弟子たちが父の家に入るためには、御自身の血による贖いが必要なのです。贖いのみわざを成し遂げたら、父のもとから《戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える》と言われます。この「戻って来る」というのは、「再臨」、すなわち、天にあげられたキリストが終わりの日に現れることを指すのではなく、この後で語られるように(14章15〜20)、復活した主イエスが聖霊という形で「別の弁護者」として弟子たちのところに来られることを指しています。その結果、《わたしのいる所に、あなたたちもいることになる》という霊的交わりが、聖霊によって実現するのです。

  《4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」》
  イエスさまは《わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている》と言われました。それに対してトマスは、あなたの行き先が分からないのに、どうしてあなたのおられるところに行く道が分かるでしょうかと、不審の思いをぶつけます。イエスさまはトマスに答えて言われます、《わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない》。これは、「わたし」すなわち復活の主イエスこそが、人間が神に至ることができる唯一の道だという宣言です。人は、復活の主イエスに自分を投げ入れ、復活の主イエスと合わせられて共に生きるのでなければ、神を父として知り、父との交わりに生きるようになることはできません。
  ここの「道」は、定冠詞つきの単数形の道、すなわち唯一の道です。ユダヤ教では「律法」が神に至る唯一の道でした。人は律法によらなければ神を知ることはできないとされていました。それに対してヨハネ福音書は、イエスさまこそ父に至る唯一の道であると宣言します。もはや律法は唯一の道ではありません。復活のイエス・キリストがその道です。ユダヤ教徒であろうが、異教徒であろうが、人は誰でもイエス・キリストに合わせられることによって御霊を受け、その御霊によって、父との交わりに生きる子となるのです。
  日本には「分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」という有名な歌があります。世には多くの種類の教えや宗教があるけれども、どれでもその道を極めれば、悟りの境地はみな同じだという主張です。たしかに人間が到達できる悟りの境地は、どの方法を用いても到達するところは結局同じようなものかもしれません。しかし、イエスさまが父とされた聖書の神、すなわち世界の創造者にして救済者である神との命の交わりに至る道は、復活の主イエスしかありません。異教の宗教はもちろん、ユダヤ教の律法さえももはやその道ではないのです。
  イエスさまは言葉を続けます。《もしあなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知るようになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている》。「今から」、すなわちこの後に起ころうとしている聖霊の到来によって、父を知るようになると約束されます。そして、このことがさらに強調されて、「父を見る」と表現されます。「見る」とは体験的に知ることです。

  《8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。》
  イエスさまが《あなたがたは既に父を見ている》と言われたので、フィリポが驚いて、《主よ、わたしたちに御父をお示しください》と言います。フィリポは父を見るということを、何か直接的な霊的体験と考えていたのでしょう。そのような体験が与えられるならば、神を知りたいとか見たいという人間の欲求は満足します。
  それに対して、イエスさまは《わたしを見た者は、父を見たのだ》と答えられます。神が御自身を人間に見せるためになされたわざは、御自身の子イエスさまを地上に遣わすことでありました。《いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである》(ヨハネ1章18)。
  「わたしを見た者は父を見たのだ」というときの「わたし」は、復活の主イエスを指しています。そして、あの時の弟子たちも現在のわたしたちも、復活の主イエスを見るのは聖霊によるのです。聖霊の働きによって復活の主イエスと出会うときに初めて、わたしたちは十字架と復活のイエスさまの中に、罪人を赦し死人を生かす恵みの父を見るのです。
  ヨハネ福音書は、父を見ることを求める世に向かって、「イエスさまは父の内におられ、父がイエスさまの内におられて、イエスさまを通して語り働いておられるのだ」と宣言し、この使信を信じるように求めます。そして、この言葉を信じることができないのであれば、この福音書が伝えるイエスさまの多くの「力あるわざ」(奇跡)によって、イエスさまを信じるように促します。

  《12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」》
  「わたしを信じる者」とは、イエスさまを信じて、復活の主イエスの中に自分を投げ入れ、復活の主イエスと合わせられている者のことです。このように復活の主イエスに合わせられている者は、「わたしがしているのと同じわざをするようになる」と約束されます。イエスさまが地上でされたわざと同じわざをするとは、病人を癒し、悪霊を追い出すという働きだけでなく、貧しい者に恵みを告げ知らせるという福音の働き全般です。イエスさまの弟子は、イエスさまが地上でされた働きを受け継ぐことが約束され、また期待されています。ここはヨハネ福音書における「派遣説教」です。
  しかも、「これよりも大きなわざをするようになる」と約束されます。「力あるわざ」(奇跡)という面では、死者を生き返らせたイエスさまのわざよりも大きなわざは考えられません。しかし、神の福音を告げ知らせるという働きでは、パレスチナの中だけでなされたイエスさまの働き以上に大きな働きが、弟子たちの手によって全世界に及ぶようになることが予告されています。
  イエスさまの場合は、父がイエスさまの中におられてそのわざをなしておられました(11節)。しかし、イエスさまが復活して父のもとに行かれた今では、イエスさまと父が重なって、父がなされることはイエスさまがなされることになります。《わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう》。地上で復活の主イエスの使者として働く者が祈り求めることは、復活の主イエス御自身がなしてくださるという約束です。
  こうして、この段落(14章1〜14)では、世を去ろうとするイエスさまが、後に残される弟子たちに、心を騒がせることなく、イエスさまを信じて、イエスさまのわざを受け継いでいくように励まされるのです。


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