2017年5月21日  復活後第五主日  ヨハネによる福音書14章51〜21
「もう一人のイエス」
  説教者:高野 公雄 師

  《15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。》
  先週に続いて、イエスさまが弟子たちと別れて十字架へ向かう直前の「別れの説話」のお言葉です。
  初代の教会では、「イエスさまを信じる」ことが信仰の告白として重視されました。今回のように、「イエスさまを愛する」ことが重視されるのは、少し後のことです。イエスさまは復活したキリストであるという信仰が、その「見えないみ姿を愛する」(第一ペトロ1章8)という人格的な信頼による愛の交わりへと、イエスさまと結ばれて生きることへと次第に深められたのです。
  《わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る》とあるこの「わたしの掟」とは、先にイエスさまが弟子たちに与えた「新しい掟」のことでしょう。すなわち、《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい》(13章34節)という掟です。これが「新しい」掟と言われるのは、この掟がイエスさまによって守られ、イエスさまによって全うされた掟だからです。暖かい愛と冷たい掟とはなじまないと感じる人もいるでしょうけれども、掟と愛のこの結びつきは、神とイスラエルの民との契約関係にさかのぼります。《あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい》(申命記6章5)。愛は律法の要であり、ユダヤ教の中心的なテーマでした。これがイエスさまによって確認され、初代の教会へ受け継がれているのです。
  「弁護者」と訳された言葉(口語訳は助け主)は、「弁護する者」、「執り成す者」、「助ける者」などの意味を含みますが、ほんらい神の法廷での弁護者を指します。《別の弁護者》とは、今おられるイエスさまの「ほかに」、別に弁護者がいるという意味ではありません。これは弁護者であるイエスさまに代わる「もう一人のイエスさま」を指します。
  まず、イエスさまこそが、「弁護者」であり「助ける者」でした。イエスさま自身が、地上の働きにおいて、天の神に向かって民のために、弟子たちのために弁護する者でした。ですから、イエスさまは、自分が弟子たちから離れた後でも、「もう一人の自分」を父が遣わしてくださると約束するのです。ただしこの「別の弁護者」は、神の裁きの場で弁護するだけでなく、もっと広く、地上のイエスさまが弟子たちにしてくださったように、教え、導き、励まし、助け、癒してくださる方です。
  ここで、イエスさまが「別の弁護者」と呼ぶ方は、《この方は、真理の霊である》と、聖霊であることが明らかにされます。「真理の霊」と呼ばれるのは、この方が、かつて啓示されたイエスさまをわたしたちに「思い出させ」、わたしたちを導いて、《真理をことごとく悟らせる》(16章13)からです。
  復活の主イエスさまの霊は、交わりの中に現れるお方です。それと同時に、復活の主の霊は人間一人一人に現れて、その人と共に宿り、その人と共に歩んでくださいます。ところが世の人びとは、《この霊を・・・受け入れることができない》。イエスさまの臨在が「見えない」のです。この世の人たちは、《この霊を見ようとも知ろうともしない》からです。

  《18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。》
  ここで再び14章1の《心を騒がせるな》に戻ります。しかし今度は、「もう一人のイエス」が共におられるという約束の中で語られているのですから、弟子たちは「みなしご」にはしておかれないのです。
  《あなたがたのところに戻って来る》は、終末における主イエスの再臨を意味すると考えられます。さらにこれは、イエスさまの復活顕現をも表します。ですからヨハネ福音書では、イエスさまの復活顕現と聖霊降臨と再臨が二重、三重になって語られることになります。ヨハネ福音書のこの描き方は、例えばルカ福音書のように、まずイエスさまの受難があり、続いて復活があり、昇天があり、これに続く聖霊降臨があり、最後に世の終わりの再臨が訪れる、という時間的な順序を追う描き方とはずいぶん異なっています。
  《しばらくすると、世はもうわたしを見なくなる》のは、イエスさまが受難によって世から取り去られるからです。しかしこれに続いて《あなたがたはわたしを見る》とあるのは、弟子たちが復活のイエスに出会うからです。イエスさまが今もなお生きていることは、「もう一人のイエス」を「見る」こと、あるいは「知る」ことによります。わたしたちが生きるのは、わたしたちのために死んで、わたしたちのために甦られたキリストの命に与るからです。
  しかし、この《しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる》(16章16)という状況は、ある意味で今日もわたしたちの間で続いているとも言えるのです。すなわち、わたしたちが痛みと悲しみに打ちひしがれているときも、この悲しみがしばらくの間だけのものであることを思い起こさなければなりません。また、わたしたちがこの世の楽しみを味わう機会があったとしても、それがしばらくのものであることは弁えていなければなりません。

  《20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」》
  「かの日」という言い方は、ほんらい終末の日を指す言葉です。しかしここでは、14章18の「戻って来る」日を指していて、イエスさまの復活とこれに続く「もう一人のイエスさま」の臨在を指し示します。それと同時に、その臨在が信じる者の在り方につながることがここで明らかにされます。すなわち、《わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる》。この表現は、14章11の続きです。そこでは、弟子たちは、イエスさまの内に父を見るように言われましたが、ここでは、イエスさまと弟子たちとの関係が、「父との関係において」もう一度採りあげられています。イエスさまと弟子たちとの交わりは、まず父とイエスさまとの交わりにその起源を持っています。父からみ子へ、み子から神の子たちへ、です。イエスさまを愛するとは、その父を愛することです。
  わたしたちが、み霊にあって父とみ子との交わりに導き入れられるのは、「もう一人のイエス」がわたしたちに現に働いておられることを覚るところに、初めて生じるからです。ですから復活の主イエスを知るとは、自分の内にイエスさまが働いていることを知ることと一つです。これを覚ることが、その人にとっての「かの日」です。
  21節では、父とみ子の二人に「愛される人」が聖霊にあって一つ交わりにいること、このことが今までなかったほどにはっきりと確認されています。父と子と聖霊にあるクリスチャンの交わり、これが13章34の「新しい掟」、すなわち旧約に対する新約の内容です。
  ここを「掟を守るならば、父に愛される」と、あたかも「父に愛される」ためには、まずもって「掟を守らなければならない」と読むなら、それは誤解です。愛の掟がその人に成就していることは、すなわちその人が父に愛されている具体的な証しなのです。これは神の御業であって、人がやろうとしてできることではありません。
  イエスさまは、「わたしを愛する者」に《わたし自身を現す》と言われます。「現す」とは姿を現すことです。人間は自分の能力で復活のイエスさまを見ることはできません。それはイエスさまが御自身を復活したキリストとして現してくださるときに初めて可能になります。これは、キリストの復活が信じる者の心の中で起こったとか、キリストが信じる者の心の中でいつまでも生き続けることとすり替えてはいけません。彼は弟子たちと対面したのです。
  復活のイエスさまは、その後の時代の信仰者には、肉の目では見えなかったかも知れませんが、霊的にはありありと示され、対面し、確認されたことであり、それが復活して生きていますことの現れです。信仰はこの復活の現れを示された体験を土台とし、信じる者はこの示された復活のイエスさまを根拠にして生きるのです。イエスさまが約束された聖霊を受け取ることができるように、聖霊を祈りもとめ、聖霊を迎え入れる準備をしていきましょう。


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