2016年12月25日  降臨祭  ヨハネによる福音書1章1〜14
「みことばは人となった」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。》
  ヨハネ福音書は、万物に先立って存在していた神の初めの「み言」(ことば)について語り始めますが、この「み言」がイエス・キリストであることは、この後の17節で分かります。み言と父の神はひとつですが、わたしたちは、このみ言を通じて自分たちを造った創り主に出会うことになります。イエスさまが父の神とひとつであるとは、イエスさまが父の神自身だという意味ではありません。父の神と御子イエスが、同じ神の性質を有しながら、互いに人格的な交わりにあってひとつであるということです。《万物は言によって成った》とは、父とみ子の交わりの中からすべてのものが創造されるということです。
  この世でのイエスさまの生涯は、永遠の神のみ言が、歴史の中に啓示された「出来事」であって、「この出来事」は、人類の歴史を貫いて働き続けます。したがって、宇宙はまだ完成してもいないし、出来上がってもいません。わたしたち人間を含めて、それは流動しています。宇宙は、創世記の「混沌の深淵」から出発しているけれども、まだその混沌を抜けきってはいないのです。
  宇宙や自然は、人間を含めて、機械仕掛けの時計のように、それ自体独立してオートマティックに動いているのではありません。神のみ手に動かされ、造られ、活かされ続けているのです。ですから、聖書は、宇宙(この世)がそれ自体で神と人間から自立して存在しているとは見ていません。「自分」という存在を成り立たせている事象もまた、宇宙の一切の事象とひとつながりになって、神のみ言の働きによって現に生起しているからです。み言であるお方は「この世」に向かって絶えず語りかけ、今もなお働いています。神はこのお方を通じてご自分をこの世に「啓示」しておられるのです。
  み言であるイエスさまの《命は人を照らす光》だとあります。光が人間を照らすのは、人間を方向づけるためです。ですから、光は理解したり考察したりするものではありません。それに導かれ、従うものです。わたしたちはイエスさまの光に照らされることによって、あるべき人間の原像に目覚め、光に従い始めます。この世の闇は、み言の光の到来によって初めて、その光によって打ち負かされるのです。光は闇を光に変えるからです。
  《暗闇は光を理解しなかった》とありますが、神からの啓示の光をわたしたちが理解できるのは、み言の光がわたしたち自身の造り主だからです。しかしまた、わたしたちがみ言をすぐには理解できないのも、み言の光がわたしたちの造り主であるというまさにその理由からです。なぜなら、わたしたちは自分が「造られた」存在であることに気がつかないからです。み言に聞くためには、わたしたちは、自分が自分の主人であるかのような振る舞いを改めなければならないのです。これが、み言の光をわたしたちにとって受け入れ難くしている理由です。

  《6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。》
  み言を証しする人は、洗礼者ヨハネも福音書記者ヨハネもいるのですが、《言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった》。イスラエルは知らなかったのではなく、「受け入れなかった」のです。これは、み言の受難、すなわちイエス・キリストの十字架を指しているのは明らかです。み言の受難を示唆した後で、《しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた》、と語られます。み言が、ご自分の受難によって、人々に神の子となる資格を与えたのです。神の子となるのは、人間の努力や営みによっては不可能な創造のみ業です。
  ここには、世界が光によって出来たこと、この光が闇の世に入り込んできたこと、それなのに世はこれを拒否した、つまり知ろうとはしなかったこと、それでも光は、なおもこの世を照らして、み名を受け入れる者を造り出していくありさまを証ししています。み言の真理は聞いて知ることによりますが、決め手になるのは、「知る」ことのひとつ前の「知ろうとする」わたしたちの意思です。知ろうとしないなら「受け入れない」が起こります。「知ろうとする」なら、み言を「受け入れた人」(12節)へつながります。だれでも主のみ名によって祈り求めるなら、その人の内に浸透する光から来る力が働きます。その結果、その人に神の子となる性質が宿るのです。

  《14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。》
  「言が肉となった」出来事を語るのに最もふさわしいのが、クリスマス物語です。あのクリスマスの夜に、馬小屋の中で、神から遣わされた救い主が誕生したように、み言の光が、イエスさまという一人の人間として、わたしたちの住む世界に差し込んできて、わたしたちの心の奥深くに宿ってくださったのです。このような出来事は、人知や血筋や人の欲求から出た営み(13節)では、とうていありえません。それゆえ、わたしたちは、これを神の神秘として受け入れるのがふさわしいのです。
  《言は肉となって、わたしたちの間に宿られた》ことについて、もう少し理解を深めたいと思います。「受肉」は、神のみ言が、わたしたちと同じ肉体と成られ、一人の人間として来られたことを指します。このことは、イエスさまが、アマテラスやスサノオやジュピターのように、現実には存在しない人物(神格)ではなく、歴史に実在した人物として神を啓示したという意味です。と言っても、日本の教科書には、「イエスが神を啓示された」とは書かれていません。せいぜいキリスト教の創始者として扱われる程度です。つまり、歴史に実在した人物であることと神が宿られたこととの間には、大きな溝があります。わたしたちは、この溝を踏み越えて、イエスさまの内に神のみ言を見るように求められているのです。
  み言の受肉が生じなければならなかったのは、これが、創造者が被造物と出会う唯一の必要な道だったからです。イエスさまが、わたしたちと同じレベルの肉体的な存在となることによって初めて、わたしたちの罪を赦し、弱いわたしたちを助け慰めることができるからです。こうして、わたしたちが、肉の存在でありながら、父なる神との交わりに入ることができるようにしてくださいました。そうすることで、弱い存在であるわたしたちの肉体と、さらに弱く罪に陥りやすいわたしたちの心を、神が、そのみ言であるイエス・キリストを遣わして、その弱さと罪深さとを「ご自分の問題として」背負ってくださったのです。受肉とはこういうことを意味します。
  神が人間の肉体でイエスさまをお遣わしになったのは、神の偉大さと優越性を人間に誇示するためではありません。そうではなく、神が、神の状態を捨てて、《自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者》(フィリピ2章7)となられ、弱く傷つきやすい人間の肉体と、罪に陥りやすい魂とを、赦しと愛で包み、人間に奉仕するためです。
  こうして、わたしたちが超えることのできない溝を神のほうから踏み越えられました。まさにこの故に、イエス・キリストは神から遣わされた「独特の」お方です。父の「独り子」とは、「かけがえのない大切な」という意味だけでなく、ほかと比べることができない「独特の」という意味でもあります。神が人間と同じレベルの肉体的存在となられ、そうすることで、人間としてわたしたちが受けなければならない肉体にまつわるあらゆる苦悩を、イエス・キリストを通して、いわばご自分のものとされた。このような「人間の姿をしたまことの神」が、ここに啓示されたのです。これが、クリスマス物語が伝えようとする出来事であり、わたしたちがクリスマスを祝う理由です。
  こうして、わたしたちは、イエスさまを通して、神の栄光を「見る」ことができるようになります。わたしたちに見えるその栄光はまだおぼろです。イエスさまを通じて輝く恵みは、ぼんやりとしか見えません。しかし、これも、神の深い配慮によることです。み言の光は、わたしたちに合わせて、人間の言葉に翻訳されて不完全です。だからこそ「恵み」なのです。その恵みは少しずつ広がり、《この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受け》(16節)て、だんだんと大きな恵みへとわたしたちを導いてくれます。


inserted by FC2 system