2017年4月23日  復活後第一主日  ヨハネによる福音書20章19〜23
「イエス 弟子たちを派遣する」
  説教者:高野 公雄 師

  《19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。》
  《その日》の弟子たちの行動はよく分かっていません。十一人が共同生活をしていたと考えることもできます。すなわち、《彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった》(使徒1章13)とある、この屋上の間に一緒に暮らしていたように読めます。あるいは、彼らは散らされていて、夕暮れになるのを待って集まったのかも知れません。夕方に集まったのは、昼間は顔を見られるのが恐ろしかったからでしょう。とにかく、朝早くから、彼らは驚くべき報せを次々と聞かされて、恐れていました。ユダヤ人が策略をもってイエスさまを殺し、それに満足しないで、その死体まで奪った。次には弟子である自分たちを襲撃するだろうと思って恐れたのです。
  《イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた》。戸を締め切っていたのに入って来られたことについては、理論では説明できないことですが、私たちはイエスさまの弟子たちへの顕現が具体的で現実感のある出来事であったと受け止めています。《そう言って、手とわき腹とを彼らにお見せになった》ことで、彼らの不信仰は一挙に吹き飛んで、《弟子たちは、主を見て喜んだ》のです。彼らに与えられたのは《平和があるように》という言葉、それと手と脇を見せることだけです。彼らにはこれだけで十分でした。手と脇を見せたのは、そこに十字架で受けた傷があって、それを見ればイエスさま本人だと確認できるようにとなされたことです。
  「主」という称号は、十字架の死から復活したイエスさまが、父から一切の権能を授かったうえで、世の終わりまでいつも私たちと共にいてくださるお方であることを表わします。私たちも聖霊の息吹きを受けるとき、主イエスに会うことができます。この復活の主イエスが私たちの平和と喜びなのです。

  《21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。》
  《父がわたしをお遣わしになったように、わたしもまたあなた方を遣わす》という主旨の言葉は、イエスさまの地上での働きが描かれるヨハネ福音書の前半(1章〜12章)にはまだ出て来ませんでした。そこでは、もっぱらイエスさまご自身が遣わされた方であることが語られました。後半の13章からは、イエスさまが地上での働きを終えて天に帰られる出来事が語られます。別れの時が近づき、イエスさまが去って行かれたのち、彼らは孤児になるのでなく、遣わされるのだと教えます。イエスさまからの派遣は、復活によって本格的に始まります。十字架においてすべては成就し、復活によって勝利が明らかになって、救いの歴史の新しい段階が開けたのです。使徒言行録も使徒たちの手紙もその新しい段階である派遣の時代を描いています。
  イエスさまが復活したことと、弟子たちが派遣されることとは別の事柄ですけれども、切り離せません。イエスさまが復活したのは、十字架において完成した勝利をさらに輝かしく示すためですが、それは弟子たちを派遣するためでもありました。イエスさまが栄光を受けて、それで御霊がくだり、派遣が実現するのです。
  では、派遣の時代に派遣されるのは誰か。伝統的には、遣わされた者とは任命された務めにある者だけであって、それ以外の信者は遣わされた者ではないという解釈でしたが、今日では、主の復活に与っている主の民はすべて遣わされた者だという主張が受け入れられています。このような理解は、全信徒祭司性とか信徒使徒職と呼ばれます。
  《遣わす》と言われる務めの内容は何か。《あなた方が赦す罪は誰の罪でも赦され、あなた方が赦さずに置く罪は、そのまま残るであろう》と言われていますから、罪を赦し、あるいは赦さないことが使命の核心部になります。
  では、「赦す」、あるいは「赦さない」とは、どうすることか。審判者の代理人として、人々の条件を査定し判決を申し渡すことか。そうではありません。罪の赦しを実現させる力は、福音によって与えられ、その福音を信じる信仰によって獲得されるのですから、主イエスがご自身に属する者らを世に遣わすのは、福音を宣べ伝えることによって人々が信じるようになるためです。
  大事な点は、聖霊が送られることと、弟子の派遣が結びついていることです。イエスさまは、聖霊の降臨がご自身からのものであることを、息を吹きかけるという所作によって象徴されます。罪の赦しの福音が語られても、御霊が注がれていなければ、罪の赦しは起こりません。だから、罪の赦しのための派遣に先立って、御霊を注がれることが必要だったのです。

  《23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。》
  派遣されて行った先で、果たすべき使命、それは「罪の赦しの福音」を宣べ伝えることです。イエスさまは、《だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。・・・》と言って、使徒たちの行う業の結果について、その有効性の約束を語っておられます。
  私たちは、自分自身が罪人であり、しかし、義にして聖なる御子イエスによって、自らも神の子として父からまた御子から受け入れられていることを信じる者となりました。福音書において、罪人や徴税人や罪の女がイエスさまから受け入れられている場面を読むとき、私たちは自分自身が受け入れられているということをこれらの実例によってよく理解できます。   そこからまた、私たちは、赦された者が、自分に負い目のある他の人を赦さなければならないことも悟ります。人から負債を取り立てることに熱心でありながら、自分の負債が免除されていることをまるで忘れていて、赦そうとしない人は、赦しを受ける資格を失なうということも重要な教えです。
  けれども、「罪の赦し」をそのようなことと見るとき、道徳の教えの中でもかなり重んじられている「寛容」とか「思い遣り」とか「優しさ」と、しばしば混同されてしまいます。それでは、罪の赦しの確かさも、「赦し」が「再生」と結びついていることも、見落とされてしまいます。私たちは、死人のうちから甦った主イエスと共に生きることのうちにこそ、罪の赦しがあるということを把握しなければなりません。
  罪の赦しの本質は、義と認められることであって、義でない者が神の信実とキリストの義に与ることによって義とされるのですが、これには《これからは、もう罪を犯してはならない》(ヨハネ8章11)という御言葉に結びついています。ですから、イエスさまが《七の七十倍までも赦しなさい》(マタイ18章22)と言われたことは確実に守らなければならないのですけれども、本来の赦しがダラダラと無際限に繰り返されるべきものだと理解してはいけません。「罪の赦し」は「再生」、「生まれ変わり」、すなわち、ひとたび死んで新しく生まれることと、全く同一だと思ってはならないのですが、両者の間には確かな結びつきがあって切り離せません。すなわち、私たちの再生は始まったのです。罪の赦しによって永遠の生命の賦与が始まったのです。
  罪の赦しを理解する一つの道として、イエスさまが生前、人々の間に生き、彼らと交わりを持たれた場面を聖書から読み取ることは有益です。しかし、それだけでなく、このお方が死んで甦ったお方であること、罪の赦しが本来そのような彼の存在から来ていることを読み取らなければなりません。
  「罪の赦し」について、もう一つ重要な点があります。《だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される》、とイエスさまが言われたのは、あなた方が私から託された務めとして「罪の赦しを宣言する」ということであって、私人として惜しみなく赦しを与えよ、という意味ではありません。今やイエスさまは、ご自身こそが持ち得る「罪の赦し」の権威を、使徒たちにも持たせ、これを行使させようとしておられるのです。それが、先に見た、息を吹きかけて《聖霊を受けなさい》と言われたことの内実なのです。
  では、罪の赦しはどのようにして行使されるのか。今や福音を宣べ伝えるのは、使徒たちです。イエスさまの肉声はもう聞くことはできません。彼らがイエスさまに代わって、「福音を信じなさい」と呼び掛けるのです。これは信ずべき言葉であることを裏書きするために、イエスさまは《だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される》と言われます。地上において福音を聞いて受け入れた人は、地上にいながら、いわば天国の鍵を開けてもらったのです。その逆に、福音を信じない者は天国の鍵を閉じられたのです。福音そのものに地上で解くことは天でも解き、地上で罪の赦しを宣言すれば、それが天における赦しとなる権能があります。その福音が使徒たちに委ねられたのです。



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