2017年4月30日  復活後第二主日  ヨハネによる福音書20章24〜29
「イエスとトマス」
  説教者:高野 公雄 師

  《24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」》
  トマスはまず《十二人の一人》と紹介されます。恐らく、十二弟子以外でイエスさまが復活したと聞いて、直ちに信じた人がいたのに、トマスは復活の事実を信じなかったという事情があったのでしょう。
  このトマスは《ディディモと呼ばれるトマス》と書かれています。「ディディモ」は「双子」を意味するギリシア語ですが、もともと「トマス」も双子を意味するアラム語のギリシア語形です。双子という普通名詞が弟子の仲間内の呼び名になったようですが、本名はユダ、すなわち《イスカリオテではない方のユダ》(14章22)ではないかと推定されています。
  トマスは復活の当日の夕刻、イエスさまが弟子たちと会うために来臨したとき、他の弟子たちとは一緒にいませんでした。十二弟子の中では彼だけがいなかったようです。
  だから、他の弟子たちは彼に《わたしたちは主を見た》と教えます。けれども、トマスは、その証言を信じないで、両手の釘の跡、わき腹の傷跡を見なければ信じないと言い張ります。見るだけでなく、自分の指を両手の釘の跡やわき腹の傷跡に差し込んで、それが幻ではなく現実の体であると確認するまでは信じないと言い張ります。
  この不信仰は信じない罪と、神を試みる罪との合わさったものです。この罪はトマスの側からは克服が不可能でした。主イエスが降りて来られて解決したのです。ここに今日学ぶことの中心があります。

  《26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。》
  八日の後というのは、この前の19節に《その日、すなわち週の初めの日の夕方》とあったその時から八日の後、つまり次の週の初めの日、日曜日の夕方のことです。先週も第一日の夕方、弟子たちは集まっていました。復活の主にまみえて八日目の日曜の夕方、申し合わせていたのか、それとも期せずして全員が揃ったのかは分かりませんが、とにかく彼らは集まっていました。復活の主イエスの顕現が「主の日」の夕方に限られていたわけではないと思います。しかし、弟子たちの経験した復活の主の顕現は、彼らが集っている中において起こる場合が多かったようです。マタイ28章ではガリラヤの山に弟子たちが集まったときに、ルカ24章ではクレオパともう一人の弟子がエマオの村で夕べの食卓につき、まさにパンを割くその場で彼らの目が開けて、復活の主が彼らのもとにおられることに気づきました。《二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる》(マタイ18章20)と言われたように、小さいか大きいかの違いはなく、信じる者が集まるところで、主イエスの臨在を確認することができたのです。
  それは復活の後しばらくの間だけ続いたのではなく、今でも続いています。私たちが集まっているとき、それは主がかつておられたことを懐かしく偲んでいるのではありません。
  キリスト者の間で週の第一日を「主の日」と呼ぶ風習が間もなく始まりました。「ヨハネの黙示録」にはすでにこの言い方が用いられています。
  「主の日」という言葉自体は旧約時代からありました。主なる神が来て裁きを行ない、御国を実現する日という意味でした。その言葉が週の第一日の呼び名に転用されて、主イエスの復活を記念して信者たちは週の第一日に礼拝を守るようになったのです。その礼拝の中で、これこそ主の日の到来であると確信させられる経験をもったために、この日を「主の日」と呼ぶようになったと考えられています。
  弟子たちはまた家の中にいて、戸はみな閉ざされていました。先週と違うのはトマスがいることだけです。しかし、ここでトマスの存在に重きを置きすぎては正しくありません。主イエスはトマスのために来られたのでなく、みんなのために来られたのです。「平和があるように」と言われたのも、一同に向けて平安を分かち与えるために言われたのです。

  《27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」》
  イエスさまは先にトマスが語った要求を認めて、望みのとおりにしてみなさいと言います。ところが、トマスは言われたとおりにはしません。しかし、触ることが大事なのでなく、信じる者になれと言われていることこそが大事なのですから、これでよいのです。トマスに目を向けていては解決を見ることができません。主イエスがご自身を低くすることによって解決をつけたのです。
  主イエスがここで、栄光の位置に着いたご自身を、手の届く所まで低くして、汚れた手で触り放題に触らせておられることは見逃せません。主がそのように、ご自身を、見せかけでなしに全面的に私たちに明け渡したことはしっかり受けとめておきましよう。トマスが実際は触れなかったのは、恐れ多くて辞退したのではありません。触らなくても確信できたからです。

  《28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」》
  トマスが「わたしの主、わたしの神よ」と言ったのは、単純な感嘆の叫びというよりは、イエスさまを主と信じる信仰の告白です。そのようなお方に対して今まで不信仰でした。ですが、この言葉は、罪の告白である以上に、信仰の告白であることが際立っています。
  では、信仰を持つとはどういうことでしょうか。その答えは、この後の31節に、《あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである》とあります。すなわち、信じて命を受ける、信じないなら命がないということです。
  その「命」とはどういうものか。聖書が「命」と呼ぶものと、人々が日常的に「命」と呼んでいるものとは別ものです。聖書の言う命は本来の命です。それは死に飲まれるものではなく、むしろ死を飲み干すものです。しかし、この本来の命を人は罪によって失ないました。それでも、人は本来のものではないけれども、一応、命と呼ぶことのできる命を持ち、それによって生きているのです。ただし、その命は死に飲まれてしまう命です。
  《イエスの名により命を受ける》と言われるこの命は、「永遠の命を受ける」と言われるのと内容的に同じです。本来の命は死に飲み込まれないのですから、永遠なのです。また、本来の命を受けることは、死すべき命が死んで甦ることですから、命を受けることと甦ることとは同じだと言えます。
  さて、人はこの命を信仰によってでなければ取り戻せません。生きる道は何かの薬によって、あるいは何かの術や修行の努力によって得られるのではなく、聖書が言うように、信仰によって神から与えられるのです。信じて生きるとは、神が私たちの《命への導き手》(使徒3章15)として与えてくださったキリスト・イエスを信じ、それによってキリストにある命に与ることです。イエスさまは《わたしのいる所に、あなたがたもいることになる》(ヨハネ14章3)と言われましたが、復活した主イエスの命に与って私たちも生きるのです。神から遣わされた御子イエスが私たちのために死に、私たちのために死に勝つ命を復活によって勝ち得てくださったから、それに与って私たちも生きるのです。永遠に至るにはこの道しかありません。
  何を信じようと、信じ方が真剣であればよいというわけではありません。信じられている事柄が正しくなければ、すなわち、偽りなき神が差し出す唯一の道にしたがって信じなければなりません。それは、「イエスは神の子キリストである」と信じる信仰です。ナザレのイエスだけがキリストなのです。そのお方だけが《わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない》(14章6)と言うことができるのです。
  《見ないのに信じる人は、幸いである》。これはトマスの不信仰を責める言葉ではありません。この言葉は、かつて顕現に接したイエスさまの直弟子たちから、その弟子たちの伝承を受け継いだ信仰者たち、すなわち「見ないで信じる」新しい時代の人たちに向けられているのです。私たちは「イエスは神の子キリストである」と信じ、告白し、このキリストによって永遠の命に入れば良いのです。見ないで信じる幸いを味わう者でありたいと思います。



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