2017年3月19日  四旬節第三主日  ヨハネによる福音書4章5〜26
「イエスとサマリアの女」
  説教者:高野 公雄 師

  《5 それで、(イエスは)ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。》
  イエスさまは、どうしてこのサマリアのシカルという町に来たのでしょうか。当時のユダヤ人は、サマリア人の住む所を通りませんでした。ユダヤからガリラヤまで真っ直ぐ向かえば、サマリアを通らざるを得ませんが、当時のユダヤ人は、エリコを抜けてヨルダン川に出て、そこから北上するというルートを使っていたのです。そういう遠回りをしてまでサマリアの地を避けるようになったことには、長い歴史的背景があります。ユダヤ人とサマリア人は、もとをたどれば同じイスラエルの民族でしたけれど、長い歴史の中で、外国人に対する以上に敵対する関係になってしまったのです。
  だからこそ、《しかし、サマリアを通らねばならなかった》(4節)のです。この女性に出会うため、そして、それをきっかけにこの町の人々もまた、イエスさまを信じて救われるためです。4章40〜41に、《そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた》とあります。イエスさまの福音がサマリア地方全体に広まっていくのは、使徒言行録8章4以下にあるフィリポの伝道によるのですが、このときすでにイエスさまによって種は蒔かれていたのです。ユダヤ人たちが忌み嫌い、軽蔑していたサマリア人もまた救われなければならない。この神のみ心の中で、イエスさまはサマリアの町シカルに来たのです。

  《6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。》
  イエスさまは疲れて、井戸のそばに座っていました。ふつうは水汲みは女性の朝一番の仕事です。でも、このサマリアの女性は昼の12時ころに人を避けるようにして水を汲みに来ました。ところが、そこにこの女性を待っていた方がいたのです。イエスさまは《水を飲ませてください》と声をかけます。イエスさまは、この女性を救いに来たのですが、自分の方から一杯の水を請います。当時のユダヤ人はサマリア人を汚れた者として軽蔑していました。食べる器を共にすることはありえません。しかし、水を求めるということは、この女性の器を用いることになります。それは、この女性にとって衝撃の出来事でした。イエスさまの願いを拒否してしまいます。

  《10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」》
  ここでイエスさまは、「神の賜物」「わたしはだれか」「生きた水」という言葉を投げかけます。しかし、女性の頭には単なる飲み水のことしかありませんから、イエスさまが言われることが何なのか、さっぱり分からなかったでしょう。「生きた水」を与えると言っても、この井戸から水を汲むには器が必要なのに、あなたはそれを持っていないではありませんか。どうやって私にその「生きた水」をくれるというのですか。そう女性は言うのです。
  この「生きた水」とは、泉や川のように流れを持った水にことですが、これは、人をいきいきと生かす水ということでもあります。この女性は、このヤコブの水だけが自分の命をつなぐ水だと思っていました。そして、この井戸はヤコブ以来、みんながその命を保ってきた水なのです。その水より良い水があるのか。それを私にくれるというのか。それはあり得ないことです。
  イエスさまの言葉はついに核心に入ります。《この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水、生きた水を飲む者は決して渇かない。渇かないどころか、その人の内で泉となって、永遠の命に至る水がわき出る》。そんな良い水なら、だれでも欲しいでしょう。《主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください》と願います。この女性は、イエスさまが与える「生きた水」が何であるのか分かっていません。もう渇くこともない、水を汲みに来なくてもいい、魔法の水だと思っているのです。しかし、ここで大切なことは、この女性がどれほどイエスさまの言葉を理解していたか、それともしていなかったかではありません。イエスさまがこの女性を救おうとして、言葉をかけ、出会ってくださったということが大切なのです。この女性はやがて、「生きた水」が何であり、自分に水を求めた人がだれであるかを知ることになります。
  《「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである》(7章37〜39)とあるように、この「生きた水」とは、聖霊です。イエスさまが私たちに聖霊を与えてくださり、もう決して渇かない者にしてくださり、永遠の命へと導いてくださるのです。
  私たちは多くのものを求めます。それを手に入れさえすれば渇きを癒されると思っています。しかし、それは錯覚です。それを手に入れれば、すぐに次のものが欲しくなって渇きを覚えるのです。人は、目に見える何かを手に入れることによって渇きを癒すことはできません。私たちが本当に求めているもの、希望とか喜びは、イエスさまによって聖霊を与えられ、イエスさまが誰であり、自分が誰であるかを知って、自分に与えられている一日一日を、神が与えてくださる永遠の命に向かって歩む中で与えられるものなのです。それは、私たちに人生の本当の意味を教え、何のために、何に向かって生きているかを教えるのです。

  《16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
  イエスさまは、この女性との対話を《まことの礼拝をする者》というテーマに導きます。ここで、「まことの礼拝」とは、「霊と真理によって」なされるのだと言われています。この「霊と真理」によることこそが、人を神と出会わせるものなのです。そして、「霊と真理」による「礼拝者」であることが、イエスさまが与える救いであります。聖霊は、あたかも目に見える形で現存するかのように、「神」を「父」として示してくださるのです。
  以上のことから、救いの実相が見えてきます。すなわち、神のみ前で赤裸々な罪人でしかない人間に聖霊が働きかけて、霊的な再生を実現させ、神を親しい「父」として認識させて、語り掛ける神との関係こそが、「救い」そのものなのです。《父はこのような人々を礼拝者として求めておられる》。イエスさまは「サマリアの女」の記事を通して、あなたに「まことの礼拝者」になる道を示しておられるのです。


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