2016年9月4日  聖霊降臨後第16主日  ルカによる福音書14章25〜33
「イエスさまに従う覚悟」
  説教者:高野 公雄 師

  《25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた》。
  イエスさまがエルサレムに向かって旅を続ける間、大勢の群衆が後について来ました。イエスさまがメシア的な大きな働きをして、イエスラエルを回復されるのではないかと期待したのでしょう。イエスさまは振り向いて、そのような期待をもってついて来た大勢の群衆に、弟子としてイエスさまについて来ることが何を意味するかを語り出されます。

  《26 もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない》。
  「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら・・・」とは、なんと乱暴な言葉だと思うでしょう。でも、これはユダヤ人の表現方法であって、文字通りに悪い心で「憎む」という意味ではありません。ヘブライ語では、人や物それ自体を「愛する」「憎む」という言い方よりも、常に何かと比較して「〜より愛する/〜より愛さない=憎む」のように比較において憎愛が語られる場合が多いのです。
  ここでも、イエスさまとの比較において「父や母を憎まない」こと、すなわち父母よりもイエスさまのほうをあえて選ぼうとは「しない」こと、これがここでの「憎まない」の意味です。マタイ10章37の《わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない》で「愛する」と言うのも、父母よりもイエスのほうを優先的に選ぶことを「しない」ということを言っているのです。
  十戒に「父と母とを敬え」とあるように、自分の家族や自分の命を大切にすることは、普通の状況ならば何よりも優先すべきことでしょう。しかし、十戒でも対人関係を戒める石板の前に、第一の石板で、まず父なる神との交わりに入りなさいと戒めています。神との交わりがしっかりしてこそ、人との交わりが正しく持てるようになるからです。《イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける》(マルコ10章29)とあるように、イエスさまのために肉親を「失う」者は、肉親を新たに「見いだす」のです。だから、《何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい》(マタイ6章33)とも言われています。

  《27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない》。
  イエスさまは、エルサレムでは苦しみを受けることを覚悟しておられます。十字架刑はローマ帝国の処刑方法の一つで、死刑にされる人を最大限に苦しめ、人々に対してみせしめとして殺す残虐な処刑方法でした。死刑囚は、自分の十字架を処刑場まで担いで行き、そこで木の上にさらし者にされるのです。そのイエスさまに従う者は、イエスさまと共に、イエスさまが受けられる苦しみを受ける覚悟が必要です。しかし、また今の私たちにとっても、イエスさまに従うことは、ある意味では「十字架を背負う」ことだと言えるでしょう。
  ルカ福音書にはすでに《わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい》(ルカ9章23)という言葉がありました。そこでは「自分を捨て」と「日々、自分の十字架を背負って」が並行して語られています。そこから考えると、「十字架を背負う」というのは、十字架につけられる殉教の死ではなく、自分の死の場である十字架の木を背負って、同胞の敵意と侮蔑の中を日々生きていく姿を指しています。だから、この意味での「十字架を背負う」とは、イエスさまの弟子となることに伴う困難や迫害を指す比喩的な意味なのです。自分の利益、名誉、安全を手放し、人からの侮辱さえも受け入れて生きること言えるでしょう。これは「日々」の生き方の問題なのです。
  そのような生涯を覚悟するのでなければ、イエスさまの弟子としてついていくことはできないのです。そのことが、「塔を建てようとする人」と「戦いに臨む王」の二つのたとえで語られます。

  《28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう》。
  この二つのたとえは、先行する二つの語録、すなわち世の絆を断ち切る覚悟と十字架を背負う覚悟を求める語録をたとえで補強するものです。このたとえでは「まず腰をすえて」費用があるか計算する、勝ち目があるか考える、という言葉が鍵の言葉です。もし腰をすえた覚悟がなくてイエスさまに従おうとするならば、土台を築いただけで塔を建てることができなかった人、勝算なく戦いをして破滅した愚かな王と同じだというのです。このような二つのたとえの主旨が次の節で明白に語られます。

  《33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない》。
  「同じように」という語が、この文が二つのたとえの主旨であり結論であることを指しています。従って、この文は先の二つの語録のまとめでもあります。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎む」覚悟と、「自分の十字架を背負う」覚悟が、「自分の持ち物を一切捨てる」という決意でまとめられています。この決意のない者は、二つのたとえの主人公のように、途中で挫折することになり、イエスさまの弟子としての道を貫くことはできないのです。イエスさまは、弟子として従おうとする者に、この世の絆を一切断ち切ることを求めておられます。イエスさまにあって捨てることは、イエスさまにあって得ることだからです。

  ところで、ルカ福音書では、17章33《自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである》に自分の命を失う「自己否定」がでてきて、9章23〜24《わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである》では、「十字架を担う」ことと「自己否定」が、さらに、きょうの14章25〜27節では、「家族を捨てる」ことと「十字架を担う」ことが組み合わされて出てきます。この重複は、それだけ今回のイエスさまの教えが、初期の教会の人たちに深い影響を与えたからでしょう。これらのお言葉は、それ以後も、現在に至るまで、イエスさまの大事な教えとして受け継がれています。

  では、このことがどうしてそんなに大切なのでしょう。自分の肉親を離れる、あるいは捨てること、この世から困難や迫害を受けること、自分自身を捨てること、この三つに共通することは、その根拠が、イエスさまを信じる人には「新しい人格的な創造」が起こる、ということです。「古い自分」を失って、「新しい自分」が与えられる、ということです。ただし、このことは、この世を去ってから、あの世で新しい自分が授与されることではありません。そうではなく、この地上において神から与えられている自分の身体には、さらに死をも超える新たな命が、イエスさまに従うことで自分に創造されて与えられているのです。
  今の世のこの命を「憎む」のは、あの世で別の命が与えられるからではありません。「今憎む」のは、もっとすばらしい命が「今ある」からです。そうでなければ、自分の命を「憎む」ことなどできません。しかもこの霊的な命は、私たちの身体的な生死を超えて永遠に存在していく。イエスさまはこう言われている、ということです。
  イエスさまを受け入れている私たちには、すでに「この世にあって」新しい命が創造されつつある。今このすばらしい命があるから、今のこの命を二の次にすることができる。しかも、この命は、私たちの身体的な生死を越えて永遠に存在していく。新しく創造されるというのは、こういうことです。

  きょうの福音で本当に問われていることは、私たちがイエスさまに従うことを本気で自分自身の生き方として選んでいるかどうか、なのではないでしょうか。


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