2016年9月11日  聖霊降臨後第17主日  ルカによる福音書15章1〜10
「神の喜び」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。3 そこで、イエスは次のたとえを話された》。
  ルカ15章では、「見失った羊」(3〜7節)、「無くした銀貨」(8〜10節)、「放蕩息子」(11〜32節)の三つのたとえ話が続いています。1〜3節はその三つの譬えの導入部です。ルカは、この導入部で、これらのたとえをどのように読むのかを読者に教えようとしているのです。
  ここでは「徴税人や罪人」がイエスさまの話を聞こうと集まってきます。すると「ファリサイ派の人々や律法学者たち」はイエスさまが罪人を歓迎して共に食事までしているとイエスさまを批判します。
  初めの三つの福音書では、イエスさまの周りに集まった人たちは、たいてい「徴税人や罪人」という組み合わせで描かれています。まれに「徴税人や娼婦たち」という組み合わせもあります(マタイ21章31)。「徴税人」というのは、ローマ皇帝に納める税の徴税を請負っている「徴税人の頭」(ルカ19章1)の下で徴税の実務を担当する人たちで、当時のユダヤ教社会では、汚れた異邦人の手先になっている汚れた者であり、同胞の苦しみを食い物にして私腹を肥やす者として忌み嫌われていました。「罪人」というのは、特定の律法規定に違反した者というのではなく、その職業上律法を無視した汚れた生活をせざるをえない階層の人たちを指しており、徴税人や娼婦が代表しています。
  このような階層の貧しい人たちを「罪人」と呼んだのは「ファリサイ派の人々や律法学者たち」でした。彼らは自分たちが解釈する律法規定を厳格に守る者が「義人」、「清い者」、神からの祝福にあずかる資格のある者であって、自分たちを「義人」と考えて、律法への熱心を誇っていました。そして、生活の必要から従事している職業上、また病気や障害から貧しい生活を強いられて、律法を学ぶことも守ることもできず、また守ろうともしない者を「罪人」、「汚れた者」として蔑んでいました。彼らは、罪人に触れると汚れに感染するとして、近づくことも避けていました(ルカ7章39)。まして一緒に食事をすることなど、ありませんでした。
  イエスさまは、話を聞こうとして近寄って来る徴税人や罪人を遠ざけるどころか、自分の仲間として迎え入れ、食事まで一緒にしています。それを見て、ファリサイ派の人々や律法学者たちは「不平を言い」、イエスさまの態度を、汚れを避けようとしない、義人にあるまじき行為として批判します。このようなファリサイ派の人々や律法学者たちの批判に答えるために、イエスさまはたとえを語られます。

  《4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう》。
  このたとえは、ファリサイ派と律法学者たちを批判するためというよりも、むしろ批判されている側の「罪人たちの救い」のほうに焦点が当てられています。ですから、私たちは批判するファリサイ派と批判されるイエスさまのほうに目を向けるよりも、むしろ自分自身を「救われる罪人」と同列に置いて読むことが求められているのです。
  イエスさまは、たとえを聞いている人々に「九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」と問いかけています。この疑問文は、「はい、当然そうすると思います」と語り手のイエスさまに同意することを期待するものです。さて、私たちはどうでしょうか。正直なところ、即座に「そうするのは当然のことです」と答えられるでしょうか。律法志向の人ならば、「正しい99人を残したままにするのはおかしい」、「自分で迷い出た者が難儀しているとしても、それは自分の責任だ」と考えるかもしれません。弟子たちや教職者たちならば、「迷い出た一人を探し出すのは大事なことだけれど、残った99人も大事だから放って行くわけにはいかないし・・」と考え込むかもしれません。徴税人や遊女たちの中には、迷い出た羊と自分を重ねて、イエスさまの描く羊飼いの心を正しく受け止めることができた人がいたことでしょう。
  もちろん、イエスさまの周りに集まった徴税人や娼婦たちが皆、自分を迷子の羊の立場におくことができたわけではないでしょう。私たちは自分を迷子であると認めることはなかなかできないものです。しかし、自分を見失われた一匹の羊の立場において聞く人だけが、このたとえを正しく理解することができるのです。見失われた一匹の羊という言葉は、どこの教会に行っても居場所を見つけられなくて行き場がなくなった人、教会につまずいた人、何かに失敗して家から外へ出られなくなった人、自分をダメだと責めている人、内に閉じこもった人、こうした人を思い浮かべます。私たちはこういう人が群れに戻ること、群れに入ることを諦めてしまいますが、イエスさまの神は諦めません。見失った一匹を見つけ出すまで捜し回るのです。群れから迷い出た羊は弱り果てて、歩くこともできなくなっています。そして見つけたら喜んで、見つけた羊を肩に担いで連れ帰ります。そして、人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うのです。これが、このたとえの羊飼い像です。
  この「一緒に喜ぶ」は、三つのたとえの鍵になる言葉です。私たちは「一緒に喜んでください」と招かれて、果たして一緒に喜ぶことができるでしょうか。三つ目の有名な「放蕩息子のたとえ」の兄は、父親の、放蕩息子への愛、自分への愛、その喜びを認めることができませんでした。このたとえの中にイエスさまと父なる神の愛の働きが最もよく表れていると思います。
  ルカは、この見失った羊を見つけた羊飼いの喜びを、「悔い改める一人の罪人」についての喜びを指し示すたとえとして、次のように結論を語ります。

  《7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」》。
  ここでイエスさまの言う「悔い改め」を罪人がその律法違反の生活を悔いて、律法を順守する「義人」になることと理解しがちですが、それは、イエスさまの恵みの福音を台無しにする誤解です。ここの「悔い改め」は、預言者がイスラエルに「悔い改め」を迫ったときに用いた「立ち帰り」(神のもとへ戻る)の意味に理解しなければなりません。今や神の無条件絶対の恵みが現れたのだから、自責や絶望というような自分の殻の中に閉じこもっていないで、立ち上がり、自分から出て、神に立ち帰り、この神の恵みに自分を投げ入れなさい、という意です。ルカ5章32に、《わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである》という重要なイエスさまの言葉が伝えられていますが、この「悔い改め」も同じような意味で、神との交わりに立ち帰るよう招く言葉です。
  自分は律法を守って正しい生活をしているのだから悔い改める必要はないと、自分の正しさに寄り頼んでいる「義人」たちは、神の恵みを必要とせず、イエスさまが告知される神の絶対無条件の恵みを無視します。事実は、人間はすべて神から遠く離れていて罪の支配下にあるのに、それに気づかず、神の恵みによって神との交わりに立ち帰ることを拒んでいるのです。神の働きを受けるようになることを、必要でないとして神に立ち帰らないのです。そのような「悔い改めを必要としない」残された99人たちについては、天には喜びはなく、彼らの行く末を心配する沈黙があるだけでしょう。
  それに対して、たった一人でもイエスさまの恵みの知らせに身を投げ出して神に立ち帰る者があれば、天に大きな喜びがある、とイエスさまは言われます。その一人はいつも、自分の義を言い立てることができない「貧しい人たち」、ユダヤ教世界で「罪人」と呼ばれている人たちの一人です。ルカは、このような「罪人」に温かい目を注いでいます。
  「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」(ルカ18章9以下)は、自分はこれ以上何も必要が無いと自己満足しているファリサイ派の人と、うつむいて憐れみを請う罪人を対照させて、神の目からご覧になってどちらがみ心にかなうのか、どちらが神の喜びにあずかるのかをみごとに描き出しています。だから、霊的な成長において最も警戒しなければならないのが「自己満足」です。
  そもそも信仰に入ることも、自分の決心や自分の意志だと思うのは間違いです。神の計らいなしに私たちは一人として信仰に入ることも、信仰を続けることもできません。教会で聖書に聞く目的は、このことを悟るためです。


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