2016年9月25日  聖霊降臨後第19主日  ルカによる福音書16章19〜31
「金持ちとラザロのたとえ」
  説教者:高野 公雄 師

  《19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。》
  「金持ちとラザロ」は、「善いサマリア人」と「放蕩息子」と並んで、ルカ福音書を代表する物語ですが、このたとえ話は、誰に語られたのかを示す前置きなしで、突然に始まります。しかし、この物語の前にある16章14〜15に、《金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。『あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ』》とあります。この言葉に続けて読むと、このたとえ話が「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」ということを、目に見える地上の世界での姿と見えない死後の世界での姿との対照で語るたとえ話(例話)であることが見えてきます。
  貧しい人は「ラザロ」と呼ばれていますが、イエスさまのたとえ話で、名前を持つのはこの人だけです。「ラザロ」という名は、ヘブライ語の「エルアザル」、すなわち「神は助ける」(出エジプト6章23)という意味の名の短縮形ですから、人からは見捨てられているが神が助けてくださる人物であることを示すために選ばれた名であるという見ることができます。
  物語は、まずこの世での二人の貧富のありさまが語られ、この金持ちの贅沢な暮らしぶりと対照して、その門前に横たわっていた「貧しい人」ラザロの悲惨な姿が描かれます。「できものだらけの」病人ラザロは、動くことも働くこともできず、物乞いとして金持ちの家の門前に置かれていました。彼の悲惨な境遇は、病気のために働くこともできず、ぼろをまとい、食べ物にもことかくという身体的なものだけでなく、イスラエルでは汚れた動物として卑しめられている犬にそのできものを舐められるという、イスラエルの宗教社会では最低の人間として、いや人間として扱ってもらえない状況が指し示しています。
  ところがやがて、ラザロは死んで、貧しさゆえの苦労と苦悩から解放され、天使たちによって宴席にいる「アブラハムのすぐそば」(口語訳と新改訳は「アブラハムのふところ」)に連れて行かれます。ユダヤ教には「義人は死後天使によって楽園へ運ばれる」という言い伝えがありました。

  《23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』》
  金持ちも死んで葬られ、陰府に落とされます。そして「その責め苦の中で目を上げて」、はるか遠くにアブラハムと「アブラハムのふところ」にいるラザロを見ます。そして、《父アブラハムよ、わたしを憐れんでください》と、父祖アブラハムに憐れみを叫び求めます。この金持ちは自分が先祖「アブラハムの子」であることに救いの拠り所を見出そうとしていますが、しかしその願いは聞き届けられません。
  たしかに彼はアブラハムの子孫です。アブラハムもこの金持ちに「子よ」と呼びかけています。しかし、アブラハムの子孫であることが自動的にアブラハムに約束された神の祝福をもたらす根拠にはなりません。すでに洗礼者ヨハネも《我々の父はアブラハムだ、などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる》(ルカ3章8)と言っています。また、ヨハネ8章37〜39を参照。わたしたちは、先祖の宗教体験の上に築き上げられた立派な「宗教」の中にいるのだから、それで救われているのだと、既成の「宗教」に安住することはできません。今自分の魂が神とどのような関わり方をしているかが問題です。
  アブラハムは、この地上で金持ちであった者に言います。彼が今陰府でもだえ苦しみ、ラザロが楽園の祝福を受けているのは、《お前は(地上に)生きていた間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。(だから)今は、ここ(楽園)で彼(ラザロ)は慰められ、お前(もと金持ち)は(陰府で)もだえ苦しむのだ》、と。《人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるもの》なのです。これの裏側は、「人に卑しめられるものは、神に尊ばれるもの」となります。この逆転をイエスさまはこのたとえ話で語っているのです。
  このように見ると、この「金持ちとラザロ」のたとえも、イエスさまの「恵みの支配」の福音を、当時の死後の世界の観念を舞台として指し示すたとえであることが見えてきます。

  なお、「陰府」(文語訳と口語訳は「黄泉」、新改訳は「ハデス」)は、もともとは善人も悪人もすべての人が死後に行く影の世界のことでした。使徒信条でキリストが「陰府に下り」と言われるときの「陰府」は、このような死者の世界です。ところが、時代が下ると、陰府は二つに区分されるようになります。一つは神に祝福された義人が入る所で、「アブラハムのふところ」=「楽園」(文語訳、口語訳、新改訳とも「パラダイス」)と呼ばれるようになります。イエスさまが十字架の上で犯罪人のひとりに《はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる》(ルカ23章43)と言っているその「楽園」です。もう一つは罪深い悪人が入る所で、そこでは責め苦があるとされます。そこが改めてまた「陰府」と呼ばれるようになります。そして次第に、人々は、陰府と地獄(文語訳と新改訳は「ゲヘナ」)、楽園と「神の国」(マタイでは「天の国」、その口語訳は「天国」)とを厳密に区別しないようになってきました。

  《27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』》
  たとえの前半(17〜26節)では、尊ばれるものと卑しめられるものの生前と死後の世界での逆転が焦点となっていましたが、後半(27〜31節)では、死者の中から生き返った者の地上での告知が主題になっています。
  金持ちは、「アブラハムのふところ」から自分がいる陰府にラザロを遣わすことができないと告げられて、《父よ、ではお願いします。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください》と言います。父親の家にいる五人の兄弟が「こんな苦しい場所」に来ることがないように、よく言い聞かせてほしい、というのです。
  この懇願に対してアブラハムは、その必要はないと答えます。というのは、この金持ちと兄弟たちはユダヤ人であり、ユダヤ人には神から遣わされたモーセと預言者たちが神の戒めと神の言葉を伝えているのですから、モーセが伝えた律法と預言者が伝えた神の言葉に耳を傾けて従うならば、このような苦しい場所に来ることはないからです。モーセと預言者に聴き従おうとしない者には、たとえ死者の中から生き返ってこの世に戻り、死後世界の楽園や陰府の様子を語る者があっても、その言葉はモーセと預言者によって与えられた神の言葉以上のことはできないのです。

  イエスさまは神の裁きを真剣に問題にされました。しかし、イエスさまは陰府や地獄に落ちる恐怖を説いて悔い改めを勧めたのではありません。イエスさまは、あくまで「恵みの支配」を告知して、恵みが来ているのだから神に立ち帰りなさいと説いたのです。このたとえ話においても、陰府での苦しみを描いて、悔い改めを迫っているのではなく、神の無条件絶対の恵みの支配を描いているのです。わたしたちは、現在生きている者への「恵み支配」を告知するたとえとして、この「金持ちとラザロ」の例話を理解することが必要です。


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