2016年10月2日  聖霊降臨後第20主日  ルカによる福音書17章1〜10
「信仰を増してください」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。3a あなたがたも気をつけなさい。」》
  「小さい者をつまずかせる罪」についての言葉は、これに続く3〜4節の「兄弟の犯す罪」への対処についての言葉と対になっています。ですから、《これらの小さい者の一人》は、兄弟たちの集い、つまり教会の中での「小さい者」(信仰の浅い者や重要視されていないメンバー)を指していることになります。この一対の言葉は、イエスさまに従う弟子たちの集いにおいて、小さい者をつまずかせることなく、赦しあって、亀裂や疵のない恵みの集いを形成するように励ます内容になっています。
  イエスさまは、人間の能力や価値と無関係に「貧しい者、小さい者」を受け入れてくださる父なる神の恵みを宣べ伝えました。そのようなイエスさまの恵みの告知によって招かれた者たちの集いでは、「小さい者」を無視したり軽蔑したりして、その人が交わりにとどまることができず、信仰から脱落していくようなことがあってはなりません。それはその人をつまずかせ、倒れさせることとなり、恵みによってご自分の民を招いた神への大きな罪となります。イエスさまはこの罪の重大さを、《首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである》という、ショッキングな比喩で強調しています。
  3節aの《あなたがたも気をつけなさい》という文は、後続の《もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい》と続けて読むよりも、先行する文を受けて、「小さい者をつまずかせることのないように気をつけよ」と言っている文として読む方が意味がよく通ります。

  《3b 「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」》
  この《もし兄弟が》以下の言葉を先の「小さい者をつまずかせる」罪の重大さを語る言葉の続きだとするならば、この「罪を犯す」は、教会の中の「小さい者」を無視したり軽蔑したりして、その人を傷つける行為を指すことになります。しかし、この「罪を犯す」はそのように狭く限定して見ないで、教会においてキリスト者としてふさわしくない行為、怒ったり、罵ったり、心を傷つける言動を広く指すと見てよいでしょう。そのような言動があれば、それを放置することなく、そのようなことはしないようによく語り聞かせなさいと勧めます。ここの並行個所では、《行って二人だけのところで忠告しなさい》(マタイ18章15)となっています。語り聞かせた結果、その人が自分の言動が悪かったと気づいて悔い改めるならば、「赦してやりなさい」と勧めます。すなわち、その犯した罪の行為のゆえにその兄弟を教会から追放するようなことはしないで、今までのように受け入れなさいと勧めています。
  人は自分になされた悪には報復したいものですし、自分と違う者は厳しく排除しようとします。しかし、赦すとは、自分に対してなされた悪に報復しないだけでなく、自分と違う者を無条件に受け入れることも含んでいます。
  このように、この1〜4節の段落は、教会内の交わりを傷つける行為に対する対処の仕方を勧告した内容として一つのまとまりになっています。

  《5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。》
  ここでやや唐突に信仰を増し加えるという主題が出てきます。前の段落と関係づけて、罪を犯した兄弟を七回も赦すことができるように「信仰を増してください」と願ったのだと解釈する人もいます。しかし、強いて前段に結びつける必要はありません。前段では「イエスさま」、「弟子たち」と呼ばれていましたが、この段落では「主」、「使徒たち」というように用語が入れ替わっていることも、場面が切り替わったことを示しています。
  その場面とは、たとえば、悪霊を追い出すとか病気をいやすなど「力ある働き」をする場面(マタイ17章19〜20参照)が考えられます。そのようなときに、弟子たちは力の不足を感じて、イエスさまに《わたしどもの信仰を増してください》とお願いしたのではないでしょうか。
  ところが、イエスさまはそのようなお願いが出てくる元の信仰理解を根底から覆します。わたしたちは信仰を何か自分の中にある能力のように考えて、それが神から賜物として与えられるにせよ、または自分の努力によるにせよ、その能力が増し加えられることを願います。しかし、イエスさまのこの言葉はわたしたちの中にはからし種一粒ほどの信仰もないことを暴露します。からし種というのはもっとも小さいもののたとえですが、どんなに小さくてもそれが本物の信仰であるなら、桑の木に向かって海に植われと言えばそうなると言います。信仰とは量の問題ではなく質の問題だということです。
  いったいその信仰とは何なのでしょうか。聖書に《神は真実な方です。この方によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです》(Tコリント1章9)とあるように、キリスト信仰の中身は「神の子、主イエス・キリストとの交わり」であり、それが成り立つ根拠は「神の真実」です。わたしたちがそれによって救われ、永遠の命に生きることができるようになるキリスト信仰とは、イエス・キリストとの交わりのことです。ふつう信仰というとわたしたちは人間の心の姿だと理解しています。人間が神に対して敬虔な心をもち、聴く言葉に対して自分の意志をもって従っていく生活だと思っています。しかし聖書の世界ではそうではないのです。信仰といえば、まず第一に、人に対する神の信仰(真実、誠実さ)です。これが、神に対する人の信仰(信実さ、誠実さ)の土台なのです。
  信仰とは、外にいますキリストを高く仰いで、その方に従順に忠実に生きようとする人間の誠意とか確信の問題ではありません。人間の側の不誠実、動揺、懐疑などにもかかわらず、圧倒的な力でわたしたちを捉える神の恵みと、その背後にある神の信実が、「キリストとの交わり」という意味のキリスト信仰を可能にするのです。神が限りなく信実にいまして、招きの言葉、約束の言葉、恩恵の選び、契約の言葉を違えることなく、かならず実現してくださるという事実が、わたしたちがキリストとの交わりという現実に生き、将来の完成を望むことができる根拠があるのです。
  信仰とは何か自分の内にある能力とか資格ではなく、徹底的に神の信実と能力に自分を明け渡して、神の言葉に従うことです。このような意味の信仰によって命じるとき、その言葉を成し遂げるのは神ですから、できないことはありません。イエスさまはこのことを、「この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と、聞く者の意表を突く表現で語っておられるのです。

  《7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」》
  この段落は、新しい場面を導入する句がないという形式上の理由だけでなく、内容からも6節の「からし種一粒ほどの信仰」を説明するために、つまり「信じる」という行為の質を教えるために、この主人に仕える僕のたとえを語られます。   このたとえは、主人に対する僕の立場を記述した上で(7〜9節)、それを比喩として《あなたがたも(その奴隷の立場と)同じことだ》と言って、《自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい》と結論を述べています。この結びの10節の言葉が、《わたしどもの信仰を増してください》という弟子たちの願いに対するイエスさまの回答となっています。
  このたとえによってイエスさまは、信仰とは神が命じられたことを、自分の側に何の理解も根拠も能力もなくても、それが神の言葉であるという理由だけで、神の言葉に従って行動することである、と教えておられるのです。このように神の言葉に従って行動するとき、神がご自分の言葉を実現して、人の目には奇跡と見える力ある働きをなされます。そのとき、わたしたちはそれが自分の能力でなされたものでないことを自覚して、「わたしたちは当然のことをしただけであり、わたしたちはふつつかな僕です」と告白するのです。信仰とはこの僕と同じ立場で生きることです。イエスさまが求める信仰とは、自分の側の信じる能力を放棄した場で、ひたすら神の真実に身をゆだねる姿勢です。


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