2016年10月9日  聖霊降臨後第21主日  ルカによる福音書17章11〜19
「感謝するサマリア人」
  説教者:高野 公雄 師

  《11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。》
  イエスさまがエルサレムに向かって旅をしておられることを書き記すのは、これで3度目です。始まりは9章51で、途中経過は13章22、ここ17章11あたりからは旅の後半に入り、エルサレムに近づいていることを知らせています。この説明文はすべて、サマリア人あるいは異邦人が救いにあずかる段落の冒頭に来ています。これは偶然ではないでしょう。この説明文は、イエスさま一行の旅程を説明するためと言うよりも、エルサレムで実現するイエスさまの救いの働きが異邦人にもたらされることを指し示すためであると理解できます。

  《12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。》
  「重い皮膚病」(口語訳「らい病、新改訳「ツァラアト」)と訳されているギリシア語原語は「レプラ」ですが、これは旧約聖書のヘブライ語「ツァラアト」のギリシア語訳です。このツァラアトと呼ばれる皮膚病は、伝染性の重い皮膚病の総称で、衣服や家屋に出る「かび」もこの名で呼ばれました(レビ記13〜14章)。ですから、ツァラアトが伝統的に「らい病」(ハンセン氏病)と同一視されてきたのは、厳密には誤りです。ただし、その中にハンセン氏病が含まれていた可能性はあります。「ツァラアト」の語源は「打たれる」ことですから、この病気は「神に打たれた」ために患者が「汚れている」と見なされ、社会的に不浄な者とされていたことがここでは重要なのです。
  祭司から「ツァラアト」と宣告された者は、一般社会から隔離された場所で暮らし、神殿祭儀に参加することは許されず、一般の人が近づいたときは《わたしは汚れた者です。汚れた者です》(レビ記13章45〜46)と叫んで、その存在を知らせなければなりませんでした。ここの十人のツァラアトにかかっている人も、律法の規定に従ってイエスさま一行に近づくことなく、《遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて》、「汚れた者です」と叫んだのでしょう。しかし、彼らはイエスさまが神の力によって病人をいやしておられることを聞き知って、イエスさまのもとに来たのです。《イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください》と、遠くから声を張り上げて懇願します。憐れみを願うのは、自分には受ける価値とか資格のないことを認めて、相手の無条件の好意にすがる姿勢です。それが信仰です。

  《14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。》
  イエスさまは彼らの窮状を憐れみ、彼らの信仰を見て、いやそうとされます。しかし、ここではただ《祭司たちのところに行って、体を見せなさい》と命じられます。ツァラアトをいやされた者は祭司に体を見てもらって、いやされたことを確認してもらい、清めの儀式を受けて始めて「清い者」となって、ユダヤ教社会の交わりに復帰できます(レビ記14章1〜32)。イエスさまは、まだツァラアトの症状があるままの十人に、自分の体を祭司に見せて、清めの儀式を受けるように命じられるのです。
  彼らがもし自分の体にツァラアトの症状が出ている現状を見て、「まだわたしのツァラアトは清められていない。このままの体では祭司のもとに行くことはできない」と考え、祭司のところに行こうとしなかったら、彼らは清められることなく、そのままの状態に留まったことでしょう。しかし、彼らはイエスさまがそう言われたのだからという理由だけで、ツァラアトの体はそのままであるのに、祭司のいるところに向かって歩き始めます。彼らは、イエスさまがそう言われたのだから祭司のところでは清い体を見せるようになると、露疑わず歩いて行きます。この行動が信仰です。すると、彼らは「そこへ行く途中で清くされた」という驚くべき出来事が起こります。
「清くされた」は、神が働いたことを表わす受動形で、「神的な受動態」と呼ばれています。この種の皮膚病はとりわけ「汚れ」だと見なされていたので、「清められた」とあるのです。

  《15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」》
  いやされた十人の中の一人が、《自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら》戻って来ます。ところが戻ってきてイエスさまに感謝を捧げたのは、ユダヤ人ではなくサマリア人でした。この事実がこの物語の重要な点です。単に多数の中の一人が感謝しなかったというだけなら、この物語の大事な意義を見落とすことになります。
  祭司のところまで行って体を見せ、いやされていることを確認してもらってから清めの儀式を行うには時間がかかりますから(レビ記の規定では確認に数週間、清めの儀式に一週間)、この人は祭司のところへ行く途中で、体がきれいになっていて、自分がいやされたことを知り、そこからすぐに戻ってきて《イエスの足もとにひれ伏して感謝した》と見られます。
  前は「遠く離れていた」のに、今はイエスさまの足もとに近づくことが出来ます。「ひれ伏す」ことは、礼拝する仕草ですから、イエスさまとイエスさまを通して働いた神に感謝を献げたのです。「イエスさまに感謝した」とあるのはここだけで、通常はイエスさまの業によって「神に感謝した」です。
  不思議な神の業に驚嘆して賛美を献げたのは、それまで神を知らなかった他国の人だけで、神を知り信じているはずのユダヤ人は、一人もイエスさまの所へ来なかったのです。
  そこで、イエスさまの応答は、続いて問いかけが三つ続きます。「清められたのは十人?」、ほかの九人はどこ?」、「(彼らは)戻ってこないのか?」。この問いかけから、イエスさまの驚きと批判と嘆息が感じ取れます。注意してほしいのは、この問いかけがサマリア人よりも弟子たちを含む周囲のユダヤ人たちに向けられていることです。
  ここで《外国人》と訳されているギリシア語は、「他で生まれた者」という意味の語で、新約聖書ではここだけに出てくる語です。この言葉は七十人訳ギリシア語聖書では、イスラエルの民以外の外国生まれの人を指すのに多く用いられています(出エジプト記12章43、レビ記22章10ほか多数)。またこの言葉は、エルサレム神殿のユダヤ人専用の「庭」に、ユダヤ人以外の民が入ることを禁じる指示書きにも用いられています。ルカがここで、ユダヤ人以外の民を指す通例の「異邦人」という語を用いないでこの語を用いたのは、非ユダヤ教徒に対する蔑視の気持ちを含むようになっている「異邦人」を避けて、たんに他国生まれの者という意味の語を用い、ユダヤ人に生まれたというだけで神に選ばれた民であるという誇りをもっているユダヤ人に警告する気持ちがあったのかもしれません。
  《ほかの九人》が全部ユダヤ人であったのかどうかは分かりませんが、イエスさまのもとに戻ってきたのが一人のサマリア人だけであったということは、少なくともユダヤ人は誰も戻って来なかったことを意味しており、ユダヤ人に対する警告となっています。ルカ福音書は繰り返し、神の国がユダヤ人から取り上げられてユダヤ人以外の民に与えられることを語っています(13章28〜29)。ルカ福音書が、「よいサマリア人のたとえ」など、繰り返しサマリア人を称揚するのは、福音が異邦人に至るのは神の御計画だとする基本的な主張の一例です。

  《19それから、イエスさまはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。》
  イエスさまは足もとにひれ伏しているサマリア人に向かって二重に語ります。《立ち上がって、行きなさい》(1章39、5章24、15章18)。そして、《あなたの信仰があなたを救った》(17章42)。この言葉は、最初期共同体の福音告知において用いられたスローガン、あるいは戦闘の旗印のような言葉ですが、それがここでユダヤ人にではなく、イエスさまからサマリア人に与えられています。ルカが異邦人のために書いている福音書にふさわしい結びとなります。   「立ち上がって行く」は神の業に与った人に命じる言い方で、「あなたの信仰があなたを救った」は、神の業が「人間の側の信仰」にも関わることを示すものです。19節は、神によるいやしの業が、神への感謝とイエスさまへの信頼へ向かうべきことを教えています。


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