2016年10月16日  聖霊降臨後第22主日  ルカによる福音書18章1〜8
「やもめと不正な裁判官のたとえ」
  説教者:高野 公雄 師

  《11 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。》
  この個所の直前に《神の国はいつ来るのか》(17章20)という問いかけがあること、このたとえの主題が神の裁きであること、結びの8節で《人の子が来るとき》のことが明確に語られていることなどから、きょうの福音書は神の国の到来に向かう心構えについての教えとして読むことができます。従って、《気を落とさずに》というのは、人の子の来臨が遅れていることへの教会の失望とか落胆に対する警告とか励ましです。そして《絶えず祈らなければならない》のは、それがそういう状況において教会がなすべきことだからです。

  《2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」》
  ふつう、パレスチナのユダヤ人は神の律法に準拠するユダヤの会堂(シナゴーグ)へ訴え出ましたが、今回のやもめは、より権力があると思われる世俗の裁判官(通常は「都市」の裁判所に属する)に直接訴え出たのでしょう。ユダヤ人は絶えず異教徒の支配者による圧政と不正に苦しめられていましたから、ここに出てくる裁判官は異邦人かも知れません。彼がパレスチナのユダヤ人の裁判官であっても、たとえの内容に変わりはありません。
  《神など畏れないし、人を人とも思わない》は、旧約以来の伝統的な言い方で(出エジプト10章16を参照)、金持ちから賄賂を受け取り、貧しい者への正義を顧みない裁判官を想像させます。裁判官は、自分の担当の地域に貧しいやもめがいて、自分の権利を守ってくれるように訴えたとき、それに応じて直ちに裁判をしなければならない立場です。ところがこの裁判官は《しばらくの間は取り合おうとしなかった》のです。おそらくこんな貧しいやもめの裁判をしても、彼女から賄賂や報酬など期待できそうにないと考えたから、それとも彼女の相手である有力者と面倒を起こすのを嫌ったからでしょう。
  しかし、やもめが《ひっきりなしにやって来て》、自分を煩わせ、ついには自分をひどい状態に陥れることになりかねないと思い、彼女のためになる裁判をしてやろうと決心します。彼は正義のためでも、貧しい者の権利を擁護するためでもなく、まったく自分の保身のためだけを考えて行動します。

  《6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」》
  イエスさまはこのたとえを話したあと、この裁判官を《不正な裁判官》と呼びます。このような不正な裁判官でさえも、弱いやもめのしつような求めに耐えることができず裁判をしたではないか。ましてや義なる裁判官である神が、ご自分が選ばれた民の絶えざる求めをいつまでも聞き流しにして裁判をしないまま放置し、ご自分の民の正しさを証明し権利を擁護されないことがあろうか。そんなことはありえないではないか、と言うのです。
  イエスさまはさらに続けて、あなたたちは、神が世界を裁き自分たちの正しさを証明し権利を擁護してくださる時が遅いと思い、落胆して、祈り求めることも止めてしまっている者もいるが、その日は決して遠くない、《速やかに》来るのだ、と言います。神は速やかに裁きを行おうとしておられるのだから、人間の思いでは遅いと思っても、《気を落とさずに(その日の到来を自覚して)絶えず祈らなければならないこと》を、きょうの福音書は私たちに求めているのです。

  7節の《裁き》は、「権利擁護」を意味する言葉で、同じ言葉が3節の「裁く」、5節の「裁判をする」、8節の「裁く」でも動詞形で繰り返し用いられており、きょうの福音書の内容を理解するためのキーワードとなります。この言葉には二つの意味があります。一つは、「人の訴訟を取り上げて正しさを証明すること、そしてその人の法的な権利を守ってやること」であり、もう一つは、「加害者である相手にも報復として処罰すること」です。二つは同じことの両面です。
  このたとえの中のやもめは、まさに裁判官にそれを求めたのです。彼女はそれをする立場にある裁判官に「裁判をして、わたしを訴える者からわたしを守ってください」、つまり「わたしの正しさを証明して、わたしの権利を擁護してください」と求めています。その訴えを受けた不正な裁判官は、はじめはしばらく放置しますが、彼女のしつような求めに耐えかねて、彼女(の権利擁護)のために裁判をする決心をします(5節)。そのたとえを受けて、7節の《まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか》と、このたとえの結論が語られます。
  ルカ福音書には、これと同じような主旨のたとえがもう一つあります。それは、夜中にパンを借りに来た友人のたとえ(11章5〜7)です。そのたとえでも、結論は《その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう》となっています。そのように、ここの「やもめと裁判官」のたとえでも、そのやもめの地区を担当する裁判官だからということでは訴えに応じようとしなかった裁判官でも、やもめがしつように求めるので彼女のために裁判をしてやろうと決心します。
  夜中の友人のたとえでは、その結論として《求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる》からである、というイエスさまの言葉が続いています(11章9〜10)。神に祈り求めるときは、現実の姿がどうであろうとも、その現実の姿によって落胆したり諦めたりすることなく、神の信実だけにより頼んで求め続けるように教えられたのがこの二つのたとえです。
  この二つのたとえ話は、どのような困難に直面しても、状況がどのように難しくても、断念することなく熱心に追求するならば、必ず目標に達することができるという激励の意味で用いられています。しかし、わたしたちの体験はこれと反対です。この世では何を求めても、それを受けるには資格とか条件が厳しく要求されます。努力したからといって、「だれでも」求めるものを得るというわけにはいきません。
  ところが、イエスさまは《だれでも》、すなわち何の資格や能力がない者でも、求める者は受けるという世界に生き、そのような世界を告げ知らせるのです。それは神の恵みの世界です。恵みが支配する場では、人は神から、何の資格がなくても、無条件に受けることができるのです。神が人間に与えてくださるものは、資格を問うことなく、求める者には誰でも無条件で与えられるのです。神と人とは本来そのような絶対無条件の関係でつながっているのだというのが、イエスさまの告げ知らせる福音です。
  今回の話は、「諦めずにしつこく祈る」なら、神は祈りに応じてくださるというふうに解釈されてきましたが、よく読むなら、恵みの神は必ず祈りに応えてくださるという確信に裏付けられているからこそ、この確信に支えられた「大胆な」祈りが可能だというのが、ここの本来の意味だと思われます。人間の側からの「諦めないしつこさ」より、むしろ「持続する忍耐」の祈りは神に支えられた祈りだからです。
  救いの約束がなかなか実現しない、祈っても神の沈黙が長い。それにもかかわらず、途絶えがちな祈り心が、ともかくも持続するのはなぜなのか。忍耐強いのは人間の霊性のほうではありません。その人間の霊性をどこまでもどこまでも支え続ける力が「どこからか」働いてくださるからです。この不思議に対する答えはただ一つ、「神がこれを支えていてくださる」ことに尽きると思います。
  8節は7節を受けていて、その原意は、「神が《速やかに》選ばれた者たちの義を立証してくださるのは確かで、このために人の子は必ず来臨する。それにしても、《人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか》です。この場合の《信仰》は、差し迫っている《人の子》の到来への信仰です。「人の子」が来て、自分の民の権利を擁護するとき、その「人の子」を待ち望む信仰の民がいなければ、その到来は無意味です。そのような事態にならないように、《気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教え》て、私たちの心構えに警告と励ましを与えているのです。


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