2016年10月16日  聖霊降臨後第23主日  ルカによる福音書18章9〜14
「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」
  説教者:高野 公雄 師

  《9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。》
  「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」は、どの社会にもいます。自分は正しい人間であるということに頼って他人を見下すことは、ほとんど人間の本性です。自分は正しい人間であると自覚したり、口にしたりしていなくても、わたしたちは無意識のうちに自分を規準にして他人を見て測っています。何人かの人が集まって人のうわさ話をすると、人をほめることは少なく、批判や悪口の方が多いでしょう。その話しぶりには、「自分ならあんなことはしないけれど、あの人は・・・」、と人を非難する気持ちがうかがえます。それは無意識に自分を規準として他人を批判し裁いているのです。
  イエスさまはそのような人間の本性が神に忌み嫌われるものであることを、たとえを用いて語り出されます。このたとえ話は、実例として取り上げられたファリサイ派の人に対する警告であるだけでなく、すべての人間に本性的な、ほとんど無意識の自己義認に対する警告です。

  《10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。》
  エルサレム神殿で個人の祈りが許されるのは、午前9時頃からと午後3時頃からでした(使徒言行録3章1節参照)。イエスさまの周囲にいる人たちの中で、《自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々》の代表格が「ファリサイ派の人々」であり、その対極にいるのが「徴税人」でした。
  ユダヤ教が支配する、当時のユダヤ人社会で自他共に「義人」とされていたのがファリサイ派の人々でした。そして、その対極で「罪人」と呼ばれて軽蔑され、ユダヤ教社会から疎外されている人たちの代表格として、徴税人が取り上げられています。イエスさまは、神殿に上って祈る二人の姿を実例としてあげて、人間に本性的な自己義認がいかに神に忌み嫌われ、神に義とされる(神に受け入れられる)のを妨げているかを示そうとします。

  《11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』》
  神殿での祈りは「立って」祈るのが普通ですが、ここの「立って」には、義人である自分の祈りは当然神に受け入れられるという彼の自信が示唆されているように思います。
  この祈りには、ファリサイ派の人々が神の前に出るときの姿勢が典型的に語り出されています。彼らはモーセが伝えた神の律法を守ることに熱心であることを神の前に誇り、自分を「義人」だと自任しています。そしてその裏側として、律法を知らず、学ぼうともせず、行うことのない「ほかの人たち」を「罪人」と呼んで見下し軽蔑しています。その軽蔑はとくに、ユダヤ教社会で「罪人」と呼ばれる階層の中でも代表格の徴税人に向けられ、自分が《この徴税人のような者でもない》ことを神に感謝しています。
  その感謝の祈りには、自分の義によって神に受け入れられていることを誇る気持ちがあらわに出ています。ファリサイ派のこのような「自己義認」への批判は、すでに旧約の時代からありました。《正しい人に向かって、わたしが、『お前は必ず生きる』と言ったとしても、もし彼が自分自身の正しさに頼って不正を行うなら、彼のすべての正しさは思い起こされることがなく、彼の行う不正のゆえに彼は死ぬ》(エゼキエル33章13)。
  ファリサイ派の人々はモーセ律法を順守するだけでなく、献げ物や断食など、敬虔の業で規定以上のことを行って、自分の神に仕える敬虔さを誇っていました。たとえば、律法は年に一度の大贖罪日の苦行(断食)を命じていますが(レビ16章29〜34)、ファリサイ派の人々は、歴史の中で律法学者たちが形成した口伝律法に基づき、週に二度、月曜日と木曜日に断食していました。「十分の一」の献げ物についても、律法は収入のすべてについて命じているのではありませんが(申命記14章22〜23)、ファリサイ派の人々は、「はっか、いのんど、ういきょう」などの薬味に至るまで「十分の一」を宮に納めて、その厳格な律法順守を誇っていました(マタイ23章23)。

  《13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』》
  それに対して徴税人は、《神様、罪人のわたしを憐れんでください》と祈ります。しかも《遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら》です。彼も「立って」祈っていますが、「遠くに」立っていることと、「目を天に上げようともせず」うつむいた姿勢で祈っているのは、おそらく天を仰いで両手を広げて祈っているファリサイ派の人と対照的に、彼の神の前での心情、すなわち自分は神の前に出る資格は何もないという無価値、無資格の自覚の表れでしょう。さらに「胸を打ちながら」は悲嘆・悔恨を表わす仕草です(マタイ24章30、ルカ23章48)。
  徴税人の自分は神の前に出る資格のない者であるという自覚が《罪人のわたし》という告白に出ています。ここの「罪人」は、律法に違反する個々の行為とかその集積ではなく、自分の全存在が汚れた者として神との交わりに値しないという自覚です。しかし、その資格のない者も神に受け入れられることを切に願わないではおれないところに、「わたしを憐れんでください」という祈りが出てくるのです。
  ここで《憐れんでください》と訳されている言葉の原意は、「和解してください」という意味です。この言葉は、「贖い、償い」という意味の名詞と同系の動詞で、この動詞は新約聖書ではこことヘブライ2章17《それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。》の2回しか出てきません。ヘブライの方では「罪を償う」という本来の意味で用いられています。この言葉は、人間の側から「神を宥(なだ)める」ことを指すのではなく、神の側が贖い(赦しの手段)を用意することを指しています。
  この徴税人の祈りは、「神様、あなたが(わたしを贖って)罪人であるわたしと和解してください」と祈っているのです。すなわち、自分は何もすることができないので、神様、あなたがわたしと和解して、わたしをあなたとの交わりに受け入れてください」と祈っているのです。自分の働きを放棄して、ひたすら神の贖いと和解の働きに委ねています。

  《14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」》
  ここでイエスさまは「わたしはあなたたちに言う」と、改まった言い方で重大な宣言をされます。これは「モーセは言っている」に対立するイエスさまの宣言です。モーセが言っていることを超える事態が到来していることを宣言する表現です。モーセ律法の立場では、義とされるのは律法を守っているファリサイ派の人であって、徴税人ではありません。それに対してイエスさまは逆のことを宣言されます。
  「義とされる」は、当時のユダヤ教徒の最大関心事でした。神から義人(正しい者)と認められて、神の民としての資格のある者と宣言されることは、すべてのユダヤ教徒の宗教生活の目標でした。当時のユダヤ教では、義とされるのはモーセ律法を順守することによるというのが自明の原則でした。イエスさまの「神の国」の福音は、その常識をくつがえすものでした。
  イエスさまの「神の国」の福音は、終末的な恵みの支配が到来したことを告げ知らせるものでした。父である神の無条件絶対の恵みが支配する終末的事態が来ているのです。律法を行ったからではなく、自分の無価値を認めて、神の恵みに身を委ねる者が「神の国」に入るのです。その事態をイエスさまは、《わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである》(ルカ5章32)と告げ知らせました。自分の律法の行いを誇り、それを根拠にして義を主張する「義人」は、恵みを必要とせず、恵みを拒むことで、神の終末的な恵みの支配、すなわち「神の国」から退けられます。
  このことが最後に、《だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる》という格言的な表現で指し示されます。この言葉はエゼキエル21章31《主なる神はこう言われる。頭巾をはずし、冠を取れ。これはこのままであるはずがない。高い者は低くされ、低い者は高くされる。》が出典ですが、この言葉は以後のイスラエルの諺となりイエスさまの時代に受け継がれたのでしょう。こことマタイ23章12とルカ14章11の3か所に表れます。
  今このたとえで、自らの無価値を認めて「へりくだる者」である徴税人は「高められ」て神の子とされ、自らを義人と自任して「高ぶる者」ファリサイ派の人は、神に退けられて「低くされ」ます。


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