2016年11月6日  聖霊降臨後第24主日  ルカによる福音書19章11〜27
「ムナ貨のたとえ」
  説教者:高野 公雄 師

  《11 人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。》
  イエスさまはこのたとえをエルサレムに入る直前に語っています。人々はイエスさまが都に入るならば、救い主としての本領を発揮して、《神の国はすぐにも現れるものと》期待していました。イエスさまは、このたとえでもって、神の国の実現をいわば棚ぼた式に期待する人々に、神の国が実現するまでの間に人としてなすべきことがあることを語って聞かせようとします。
  このムナ貨のたとえは、マタイ25章の「タラントンのたとえ」とよく似ていますが、たとえ話の本体に、その外枠となる別のたとえ話が組み合わさっているのが特徴です。まずは枠組みとなる部分を抜き出して見ていきましょう。

  《12 「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。14 しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。15 さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、27 わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ》(と命じた)。
  この話は、実際にあった事件が背景になっていると言われます。その事件とは、ヘロデ王家の創始者であり、イエスさま誕生時の王(マタイ2章1〜18)であるヘロデ大王が紀元前6年に死んだあとのことです。遺言によって三人の息子たちがパレスチナを分割して相続することになるのですが、その認可を得るためにローマ帝国皇帝のもとに行きました。そのとき、ユダヤ人たちも使節団を送って、ヘロデ大王の息子たちの統治を認めないように請願しました。ヘロデ家の支配を嫌い、エルサレムのユダヤ教指導部の自立性回復を願ったのです。ローマ皇帝アクグストゥスはその請願を却下し、ヘロデ大王の遺言のとおりに息子たちの相続を認めました。しかし「王」の称号は認めず、「領主」とか「国主」という位を与えました。つまり、ヘロデ・アンティパス(ルカ3章1)がガリラヤとペレアの領主に、ヘロデ・フィリポ2世がイトラヤとトラコン地方の領主に、ヘロデ・アルケラオ(マタイ2章22)がユダヤ、サマリア、イドマヤの国主になりました。ただし、ユダヤの民衆にとっては王と変わりはなく、新約聖書ではすべて「王」と呼ばれています。この三人の中で、ユダヤを相続した息子アルケアオはもっとも残忍で、《王の位を受けて》帰国すると、自分が王となることに反対する請願をした者たちを処刑しました。これは「血の報復」事件と呼ばれて、人々の間に記憶されました。アルケラオの残忍な統治にたまりかねた民衆は、そののちに再び皇帝に窮状を訴えると、皇帝はその請願を聞き入れてアルケラオを追放し、紀元6年、ユダヤはローマの総督が治めるローマの直轄地となりました。
  ムナ貨のたとえの枠組みは、このアルケラオの就任時の事件になぞらえた話になっています。イエスさまを《ある立派な家柄の人》にたとえ、イエスさまの十字架の死と復活・昇天を《王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つこと》にたとえています。今は遠くに旅立っていて地上にいないイエス・キリストがやがて王として来臨されるときに滅ぼされることのないように、イエスさまを「主」として受け入れるように説き勧めるたとえとなっています。
  では、次に、たとえの本体を見ていきましょう。

  《12 イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。13 そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。15 さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。》
  イエスさまは、「わたしが帰って来るまで」つまり神の国が実現するまで、イエスさまが与える1ムナでもって仕事をしなさいと僕たちに命じます。ムナはギリシアの銀貨の単位で、1ムナは100万円位に相当します。「タラントンのたとえ」のタラントンはギリシアの計算用の単位でムナの60倍です。1タラントンは6000万円位ということになります。
  聖書は、人間を徹底して神との関係の中に見ています。イエスさまが僕たちに与える1ムナは、神が人に貸し与えるいのち、頭脳、身体、能力、財産など一切を象徴しています。ムナよりもタラントンの方が、のちに神から与えられた能力や才能を意味するタレントという言葉となりました。人は地上に生きる間にこれをどう生かして使うかを神に対して責任を負っているのです。王が帰ってきたときに、預けたものの清算をするというのは、わたしたちにいのちやその他一切を預けられた神から責任を問われるということです。このことを、神の国の実現を待つ間に忘れてはなりません。

  《16 最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。17 主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』18 二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。19 主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。》
  「王の位を受けて」帰ってきた主人は僕の働きに応じて報いられます。1ムナで働いて10ムナをもうけた僕には、10の町の支配権を与え、5ムナを稼いだ僕には5つの町の支配権を与えます。町の支配権を与えることができるのは、この僕の主人が王だからです。神から貸与された1ムナを活かして働いたことを主人は《ごく小さな事に忠実だった》ことと言い、そのごく小さな働きに対して、不釣り合いな、町を治めるという大きな報酬を与えます。これは、イエスさまの再臨、神の国の実現までの間に、弟子たちは苦難に遭うだろうが、主に忠実に歩めば、大きな報いがあるという、弟子たちへの勧め、励ましです。

  《20 また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。21 あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』22 主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。23 ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』24 そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』25 僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、26 主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。27 ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ』」。》
  「預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取る」とはむちゃくちゃな主人ですが、これは厳格に決算する厳しい主人だという意味でしょう。ファリサイ派の人々は、神をそのような方として描いて、厳格に律法を守ることを教えたのです。人々は神を恐れるようになっていました。
  世の中には商売を始めて成功して大儲けする人もいれば、失敗して無一物になる人もいます。3番目に登場する僕は、主人から預かったものを失うのを恐れて、1ムナを《布に包んでしまっておきました》。そして、そのままそっくり主人に返したのですが、主人は、それを銀行(両替商)に預ければ利息を付けて受け取ることができたのに、と叱責します。当時の利息は高かったそうです。
  その僕が主人を厳しい方と見る、その見方の通りに、主人はその僕を裁きます。その僕の1ムナは取り上げられて、10ムナ持っている人に与えられます。みんなが、その人はもう10ムナ持っていますと抗議しますが、主人はこう答えます。《言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる》。これがこの世界の現実です。しかし、信仰の世界でもこのことわざが当てはまるように思います。せっかく自分に与えられた神からの恵みの賜物を、自分の欲望という布に包んでしまい込んで、福音のために有効に用いないならば、主が来られたとき、他の人々が報いを与えられているのに、自分は恥を受けることになると警告しています。わたしたちは《ごく小さな事に忠実》に歩みましょう。
  最後に、《わたしが王になるのを望まなかったあの敵ども》とは、イエスさまを王、キリストとて受け入れようとせず、十字架に掛けて殺してしまったユダヤ人たちを指していると思います。《ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ》とは、神の裁きによってユダヤ人たちが祖国を失うことになったことを言っているのでしょう。しかし、このたとえは過去のことを言うだけでなく、今の人々に対しても、主が来たときに滅ぼされることがないように、しっかりとイエスさまを主なるキリストとして受け入れるように説いているのです。


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