2016年12月18日  待降節第4主日  ルカによる福音書1章46〜55
「マリアの賛歌」
  説教者:高野 公雄 師

  きょうの聖書は、「マリアの賛歌」です。この賛歌は、《そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した》(39〜40節)で始まり、《56 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。》(56節)で終わる、マリアが親戚のエリサベトを訪問した場面で歌われています。つまり、39〜56節は一つの段落を構成しているのです。これを46節で分断してしまうと、「エリサベトの祝福」と「マリアの賛歌」の対応関係が見づらくなります。

  《《39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」》
  まずは、二人の女性が出会うまでを振り返ってみましょう。
  《あなたは身ごもって男の子を産む》、と天使が告げたとき、マリアは戸惑い、《どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに》、と驚きの声を上げます。天使はその問いに対して、《聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む》と答えます。マリアが天使の告げることを、《わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように》、と自分の身に引き受けたのは、神の導きによることはもちろんですが、彼女がその決意をするための一つの支えとなったのが、天使が語ったエリサベトのことでした。《あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない》(36〜37節)。マリアは、神がそのように人間の常識や力を超えて働き、恵みのみ業を行う、その神の計画の中にあるもう一人の女性、エリサベトの存在を知らされたのです。
  マリアは、エリサベトもまた主の言葉に自分の身を捧げたのだと確信して、直ちにエリサベトに会いに行きます。主の言葉を聴いて受け入れ、信じる者どうしが、喜びの挨拶を交わしたいのです。二人の母が出会うと、そこに喜びと賛美が湧き上がります。
  私たちは毎週教会で礼拝をささげるために集まってきます。それは何のためでしょうか。それは、同じ信仰をもっている兄弟姉妹とみ言葉と賛美を分かち合うためでしょう。互いの顔を見ながら、《主がおっしゃったことは必ず実現する》と信じることが出来た私たちは、なんと幸いでしょう、と心の底から喜び、主を賛美する。それが私たちにとっての礼拝です。
  マリアがザカリアの家に入り、エリサベトに挨拶をしたとき、エリサベトの「胎内の子がおどった」とあります。すると、エリサベトは聖霊に満たされて語り始めました。まず、《あなたは女の中で祝福された方です》、とマリアにお祝いの言葉を述べて、《胎内のお子さまも祝福されています》、と続けます。マリアが祝福された者なのは、祝福された子を宿しているからです。さらにエリサベトは、《主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう》、とマリアの信仰を称えます。神の言葉は必ず実現する、それが、《わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように》という言葉の意味でした。神が語る恵みの言葉は必ず実現する。マリアが祝福された者、幸いな者であるのは、この信仰によってです。

  《46 そこで、マリアは言った。47 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。48 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、49 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、50 その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。》
  きょうの聖書は、このエリサベトの言葉を受けて語られたものです。「あなたは幸いな人です」と告げられたマリアが、それを受け止めて、「そうです、私は幸いな者です」と歌います。《わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます》。原文では「あがめる」という言葉が冒頭に来ています。それはラテン語訳では「マグニフィカト」となりますので、この「マリアの賛歌」は「マグニフィカト Magnificat」とも呼ばれています。
  《わたしの魂は主をあがめ》と並んで、《わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます》とあります。信仰に生きるとは、神を喜ぶ喜びに生きることです。この喜びは、先ほどの「幸い」と結びついています。卑しい、ちっぽけな者でしかない自分に神が目を留めてくださり、そのみ力によって偉大なことをしてくださり、み業のために用いてくださる、マリアはその幸いを味わっていたからこそ、《私の霊は救い主である神を喜びたたえます》と歌ったのです。神を喜ぶというのは、神を自分の好きなように利用して楽しむことではありません。自分が神の主人になるのではなくて、神の僕、はしためとなって、み業のために用いていただくことにこそ本当の幸いが、そして喜びがあります。
  マリアが歌っているのは、自分の幸いだけではありません。50節以下では、自分に与えられた幸いが、これからも神を信じて生きる多くの人々に与えられていくことを語っています。《その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます》とあるように、取るに足りない自分を用いてくださる神の憐れみは代々限りなく、主を畏れる者、つまり神を信じ従う人々に及んでいきます。マリアだけではなくて、神を信じて生きる信仰者たちは皆、「幸いな者」となるのです。《今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう》、というのも、マリアのことが「幸いな者」として記憶されるというだけではなくて、今から後、いつの世にも「幸いな者」が現れる、その人々が、自分たちが受けている幸い、喜びに最初にあずかった人としてマリアのことを思い起こしていく、ということでしょう。つまり私たちが、マリアと共に幸いな者となるのです。マリアの賛歌を読むことの意味はそこにあります。私たち一人一人も、《わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます》と歌いつつ生きる者となることが、この賛歌が歌われた目的です。

  《51 主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、52 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、53 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。54 その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」》
  私たち自身がマリアと共に「幸いな者」となるとは、どのようなことを体験していくことなのか、それが51節以降の賛歌の後半に語られます。神が憐れみによって私たちに目を留め、そのみ腕で力を振るうとき、思い上がる者が打ち散らされ、権力ある者がその座から引き降ろされ、身分の低い者が高く上げられます。権力ある者と身分の低い者との立場が逆転するのです。イエスさまも《だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる》(マタイ23章12)と言っています。「思い上がる者を打ち散らし」とありますが、これはただ社会的に高い地位や権力を握っている者のことではなくて、心がおごり高ぶっている者なのです。そういう者が打ち散らされ、「身分の低い者」が高く上げられる。これも、社会的な地位、身分のことではなくて、神のみ前でちっぽけな、取るに足りない者のことです。心がおごり高ぶっている者ではなくて、自分が小さい、取るに足りない者であることを知っている者こそが神によって用いられる、それこそがマリアが体験したことでした。私たちの間で主がみ腕で力を振るってくださるときにも、これと同じことが起るのです。
  つまり、幸いな者として生きるとは、神の憐れみによって生かされる者となることです。「神の憐れみ」こそが、マリアの賛歌を貫いている主題です。50節には「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」とあり、54節にも「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」とあります。そして55節には、この憐れみが、イスラエルの民の最初の先祖アブラハムに与えられた神の約束に基づくものであることが語られています。神がその僕イスラエルを受け入れて憐れみによって生かし、導いてくださるのは、神がアブラハムとその子孫に与えた約束に忠実であるからです。神の憐れみは人間の罪や悲惨さに対する単なる同情ではありません。それは神の約束に基づくものです。神はこの憐れみの約束を果たすために、今や、独り子イエス・キリストをこの世に遣わそうとしておられます。マリアはその神の憐れみの約束の実現のために選ばれ、用いられたのです。そこに彼女の幸いがありました。私たちも、イエスさま・キリストによって実現した神の憐れみのみ心によって生かされ、そのみ心のために用いられていくことによって、「幸いな者」となるのです。


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