2016年11月13日  聖霊降臨後第26主日  ルカによる福音書20章27〜40
「復活についての問答」
  説教者:高野 公雄 師

  《27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。》
  神殿で毎日民衆に教えを説いているイエスさまに、サドカイ派の人々が論争をしかけます。サドカイ派は、ファリサイ派と並ぶイエスさま当時のユダヤ教の一派ですが、ルカ福音書ではサドカイ派が登場するのはここだけです。彼らの名「サドカイ」は祭司の名から来ています。サドカイ派は大祭司をはじめ祭司貴族階級とその周辺の人々が多く、神殿の支配的勢力を占めていました。それに対してファリサイ派は、一般の庶民が中心であり、庶民の中に入って行って律法を教え、それを忠実に守って生きるよう導きました。
  サドカイ派は、神学的には保守派で、モーセ五書(すなわち旧約聖書の最初の五つの文書、創世記〜申命記)に書かれていることだけを神からの啓示として、それ以後の展開を認めませんでした。ファリサイ派が時代の状況に即してモーセ律法の解釈を述べた律法学者たちの口伝の集積を「口伝律法」として、モーセ五書の「成文律法」と同等の権威を認めたのに反対し、あくまで書かれたモーセ律法だけに固執しました。それで、ファリサイ派がヘレニズム期の時代の流れの中で、終わりの日の復活と審判の思想を形成したのに対して、サドカイ派はそれに反対し、ファリサイ派が主張する天使の存在や死後の霊魂の存在、最後の日の死者の復活などはないと主張していました。
  ここで「復活がある」とは、神は終わりの日に御自身に属する民を死者の中から復活させるという信仰を指しています。この信仰はイスラエルの歴史においてごく後期になって成立したものです。旧約聖書では、ごく後期に属する黙示録的な部分に暗示的な文言が出てくるだけで、全体としては死者の復活を語ることはありません。旧約聖書の中で「復活」ということがはっきりと語られるようになるのは、ダニエル書12章と続編のマカバイ記二7章です。これらの個所が書かれた時代は、紀元前2世紀の迫害と殉教の時代でした。神に忠実に生きようとすればするほど、この世では苦しみを受け、中には殺されていく人もいる、という厳しい状況の中で、死を越えて神が救いを与えてくださるという希望、すなわち「復活の希望」が語られ始めたのです。それは、「この世において、今の苦しみと絶望的な未来しかないと感じられるとき、それでもなお神に信頼し、人を愛し、希望を持って生きることができるかどうか」というギリギリの決断の問題です。
  イエスさまは、当時すでにユダヤ教の正統信条として広く民衆に受け入れられていた「死者の復活」の信仰を当然の前提として神の国を語られたことがルカ14章14などからもうかがえます。サドカイ派は、復活の信仰に関する限りイエスさまはファリサイ派の立場に立つ者と見なして、その信仰が律法に矛盾することを取り上げて論争を挑み、言葉じりをとらえようとします。

  《28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。30 次男、31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。32 最後にその女も死にました。33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」。》
  この律法は申命記25章5〜10に書かれています。これは古代の部族社会で行われていたレビレート婚(Levirate marriage)の習慣をイスラエルの民の法として取り入れたものです。古代の部族社会では男子による家名の継承が重要でしたから、ある家長が跡取りの男子を残さず死んだ場合は、その妻は他家に嫁ぐことは許されず、亡夫の弟と結婚して、生まれた長子を亡夫の家の跡取りとして、彼の家を続かせなければならないと規定されていました。創世記38章8にその実例が記されています。
  死者の復活を否定するサドカイ派は、復活を認めるとこのモーセ律法が成り立たなくなる、と復活を認めるファリサイ派を批判していました。彼らはその議論をイエスさまに向けます。復活を認めると、この女は七人の男の妻となることになりますが、そのようなことは律法では許されません。復活を認めるとモーセ律法は矛盾に陥ってしまう、と言うのです。「復活の時、その女はだれの妻になるのか」という問いは、ファリサイ派の復活信仰の矛盾をつく難問でした。ファリサイ派の律法学者はこの問いに「その女は最初の男の夫となる」と答えていたようですが、問う者と同じモーセ律法を絶対とする立場に立つ限り、どう答えても自己矛盾は避けられません。

  《34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。》
  イエスさまはこの問いに対して、その問いが出てくる立場そのものの間違いを指摘することによって、問いそのものを無効だとするのです。この問いは、「次の世に入って死者の中から復活する」者も、この世でめとったり嫁いだりする者と同じような結婚関係をもつと前提していますが、イエスさまはその前提そのものが間違いであることを明かします。
  マルコ福音書ではこの言葉の前に、《あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか》(マルコ12章24)とあって、彼らの思い違いの原因を指摘しています。復活とは神による新しい世界の創造であり、そこでは人間は天使のように朽ちることのない体をもって生きるのですから、死ぬべき体の人間が地上に存続するために必要としている結婚は、復活の世界ではもはや存在しない、ということです。
  こう言うと、夫婦・親子・友人などの親密な関係が無くなるのは空しいと思われるかもしれませんが、それは天使同士のような愛と信頼関係に変わるのです。また、《復活するのにふさわしいとされた人々》という言葉に気になるかもしれません。このわたしは復活して永遠の命をいただくにふさわしくない者です。十字架にかかってくださったイエスさまによって、このふさわしくない者が、ふさわしい者とされたのです。十字架によって罪赦されて、永遠の神の国に復活するにふさわしい者と見なしていただけるのです。

  《37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」39 そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。40 彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。》
  死者の復活はないとするサドカイ派の人たちに、イエスさまはサドカイ派の重んじるモーセ五書の中から引用して教えられます。「柴」の個所とは、出エジプト記3章を指します。神は、燃え尽きないで燃えている柴の間からモーセに現れて語りかけられました。《わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である》(出エジプト3章6)。イスラエルの先祖とともにいて、いつも彼らを守り導いた神は、今エジプトの奴隷状態にある民を決して見捨てていません。この神は、いつも人とともにいて人を導き、どんな苦しみの中でも人が希望を置くことのできる神です。ここに復活の希望の根拠があります。38節の《生きている者の神》とは、生きている人間の支えとなり、希望となり、力となる神だとも言えるでしょう。逆に、現実の人間の苦しみや喜びと関係なく、人が儀式をとおして出会うだけの神は《死んだ者の神》と言ってもよいかもしれません。
  このように、《神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である》という言葉は、伝承されたイエスさまの語録の中でも最も重要な言葉の一つです。このような根源的な神理解がイエスさまの聖書全体の理解を貫き、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という御名は復活の啓示であると言うのです。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」は、「ヤハウェ」という御名が啓示される前から用いられた神の名であって、イスラエルの民にとって最も古くて親しみ深い御名です。イエスさまはこの御名の中にすでに、神が死者を復活させる方であることが示されていると言われます。
  死者の復活の信仰はイスラエルの歴史の最後の時期になってようやく成立したものであるとされていますが、イエスさまのような聖書理解によれば、その啓示はイスラエルの歴史の最初からすでに与えられていたことになります。それはイスラエルの不信実の故に隠されていただけで、いま「神によって生きている」イエスさまによって覆いが除かれ、聖書の全体が死者を復活させる神の啓示となります。
  きょうの箇所は、わたしたちの神との関わりについての鋭い問いかけでもあります。それは、「わたしたちは神にどのような希望を置いているのか、そして、わたしたちは本当に神によって生きているか?」という問いかけです。


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