2016年11月20日  聖霊降臨後最終主日  ルカによる福音書21章5〜19
「終末前の苦しみ」
  説教者:高野 公雄 師

  《《5 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。6 「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」。》
  ヘロデ大王は前19年にエルサレム神殿の大改築を始めて、前9年に一応落成して献堂式が行われました。しかし、その後も工事は続き、イエスさまの時代にも、なお工事は続いていました。当時のエルサレム神殿は、ユダヤの歴史の中でも最も豪華な姿だったといいます。その姿を見ながら、巡礼者たちはそのすばらしさについて語り合っていたのです。その賛嘆の言葉に、このような立派な神殿で礼拝される神は、神殿とそこで礼拝する民を安泰に守られるに違いない、という「偽りの平安」(エレミヤ6章14)の思いが響いているのを聴き取られたのでしょう。イエスさまは言います。《あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る》。要するに、「この神殿は徹底的に崩れる」と言われたのです。
  イエスさまのこの言葉は、それから約40年後、紀元70年に歴史上の出来事となりました。ユダヤ人たちがローマ帝国に反乱を起こし、激しく抵抗を続けましたが、ついに敗れて、エルサレム神殿もほとんど跡形もなく破壊されました。その壁の一部が今なお残っているのが、有名な「嘆きの壁」(西の壁)と呼ばれるものです。
  この神殿の崩壊を、イエスさまは何十年も前に見事に予言したとも言えますが、他方、当たり前のことを言っただけとも言えます。人間の造ったものは、必ず崩れることでしょう。しかし、当時のユダヤ人たちにとって、神殿は信仰の拠り所であり、民族の存在の基盤でした。その神殿が壊れるということは、世の終わりを意味するような出来事です。

  《7 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。9 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」10 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。11 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。》
  そこで人びとはイエスさまに尋ねます。「そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」。ところがイエスさまは、直接には彼らの問いに答えません。神殿崩壊がいつ起きるかという質問は、世の終わり(神の国の到来)がいつ来るかという意味に変わって、それに対する心構えが、「偽キリストに惑わされて福音の真理から逸脱しないように気をつけなさい」と説かれます。ここには戦争や暴動について、さらには地震や飢饉や疫病について語られていますから、わたしたちは、こういう恐ろしいことが世の終わりのしるしだと言われているのだと思うかもしれませんが、イエスさまが言われたことはむしろ逆です。《戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。》
  それでは、「この世の終わり」は何によってもたらされるのでしょうか。そのことが少し後の個所で、《そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る》(ルカ21章27)、と語られています。この世に終わりをもたらすのは、つまりこの世界とわたしたちを最終的に支配するのは、崩壊や破局をもたらす力、わたしたちを滅ぼそうとする力ではなくて、わたしたちの救い主イエスさまなのです。崩壊、破局による苦しみの現実の中で、恐れおびえることなく生きることができるとしたら、それはこの救い主イエスさまの支配が誰の目にも明らかな仕方で確立することによってこそこの世界が終わるのだということを信じる信仰によってなのです。   さまざまな災害の苦しみを見つめつつ語られていたのは、それらによってこの世が終わるのではない、ということでした。この世界は、イエスさまがもう一度来られ、今は隠されているそのご支配が誰の目にもあらわになり、完成することによってこそ終わるのです。だから、災害などの苦しみの中でも、「おびえてはならない」と言われていたのです。

  《12 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。13 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。14 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。15 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。16 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。17 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる》。
  この個所における、信仰のゆえの苦しみもそれと同じ流れの中で見つめられています。つまり迫害に代表されるその苦しみも、終末へと向かうこの世の歩みの中における苦しみなのであって、救い主イエス・キリストの支配が完成する世の終わりにおいては、それらは全て解消され、取り除かれるのです。その終わりの時における救いの完成を信じ、それを待ち望むがゆえに、わたしたちは今この世においてその苦しみを忍耐し、逃げ出さずにその中に留まり続けることができるのです。
  迫害を恐れず、信仰を言い表わすことについて、イエスさまは弟子たちにかつてこう語っておられます。《友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。》(ルカ12章4〜7)
  この言葉は、「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる」というこの文脈でこそ語られるにふさわしい言葉でしょう。「だれを恐れるべきか、教えよう」と言って、「殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方」をこそ恐れなさい、と言われます。すなわち神をこそ恐れ、神の意志に従うべきだと励まされます。その神は、あの雀の一羽さえ忘れることなく、髪の毛の一本に至るまで数えつくすほどに、あなたのことを知り、顧みてくださっているのです。だから、体を殺す以上のことは何もできない者を恐れることなく、地上の一切の苦難を耐えて神に従い、神から永遠の命、永遠の栄光をいただく者となりなさい、と励まされます。

  《18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」。》
  「髪の毛の一本」とは、ごくわずかなもの、ほんの小さいもののたとえです。わたしたちに対する神の愛の確かさ、大きさ、細やかさを強調する表現です。その前の所には、迫害によって「中には殺される者もいる」、と語られていますから、それと矛盾している、と思うかもしれません。しかし、わたしたちが信仰のゆえの苦しみの中に忍耐して留まり続けるなら、たとえそこで殺されることがあるとしても、なおわたしたちは、わたしたちの髪の毛一本までも数えていてくださり、守り導いてくださっている、その神さまのみ手の内にあるのです。

  きょうはこの後、グレタ・ジェロルドさんの洗礼式が行われます。わたしたちがイエス・キリストを信じ、洗礼を受けたのは、このお方が十字架につけられ、神がこのお方を甦らせてくださったからです。まさしく神は、イエスさまの髪の毛一本も損なわれることのないように守ってくださいました。このイエスさまの存在に触れて、わたしたちも、神の愛を知ったのです。
  神殿の石がひとつも積み残されることなく崩れるときにも、イエスさまの甦りにおいて示された神の愛は揺らぐことはありません。その神の愛に生かされているわたしたちの髪の毛一本といえども、失われることはないのです。イエスさまは、この少し後の個所で、《天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない》(ルカ21章33)、と言われます。「わたしの言葉は決して滅びない」。だから、「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」のです。わたしたちは救い主イエスさまのこのみ言葉に立つ者です。
  きょうは教会の暦で一年の最後の主日です。神の最後的な救いに深く信頼して、忍耐強く待ち望む新たな心を呼び起こしていただけるように祈りましょう。


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