2016年12月24日  降臨祭(前夜)  ルカによる福音書2章1〜20
「救い主イエスの誕生」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。》
  救い主イエスさまの誕生は、全世界に告知されるべき出来事であって、一ユダヤ民族内のことではありません。当時の人々にとって、全世界とはローマ帝国でした。イエスさまの誕生は、皇帝アウグストゥス(在位前31年〜後14年)の時代に行われたシリア州総督キリニウスによる最初の住民登録の時のことでした。皇帝布告による住民登録は「自分の町」でしなければなりませんでした。「自分の町」というのは、出生した町(いわば本籍地のような町)のことです。《ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので》、ダビデ家の本拠地であり、おそらくヨセフもそこで生まれたユダヤのベツレヘムまで、ガリラヤのナザレから数日かけて旅して行きます。ベツレヘムはダビデの父エッサイの家があった町であり、ダビデはそこで生まれ育ち、そこで預言者サムエルから油を注がれています(サムエル上16章)。
  ガリラヤのユダヤ教徒は年に3回の巡礼祭にはエルサレムの神殿に詣でていたのですから、馴れた道でしょうが、出産直前の身重のマリアには辛い旅だったことでしょう。ユダヤ教社会では、婚約中の女性も法律上は妻として扱われますので、マリアも夫ヨセフに同行しました。
  マリアは旅先のベツレヘムで《月が満ちて、初めての子を産》むことになります。《宿屋には彼らの泊まる場所がなかった》ので、馬小屋に泊まり、生まれた子を《布にくるんで飼い葉桶に寝かせ》ました。宿屋に泊まる場所がなかったのは、ヨセフとマリアのように遠くの土地に住んでいる人たちが住民登録のために一斉に生地のベツレヘムに戻ってきたからです。   イエスさまの誕生の卑賤な姿は、《キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ》(フィリピ2章6〜7)た「しるし」です。

  《8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。14 「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」》
  イエスさま誕生のしるしは、野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに与えられます。羊飼いの身分は当時のユダヤ教社会できわめて低いものでした。彼らは、徴税人や遊女や盗賊と並んで、証言の資格もない、ユダヤ教社会の枠外の階層の人たちでした。そのような人たちに一人の天使が現れて、救い主の誕生を告げ知らせます。
  神から遣わされた天使が発する神の栄光の光が、野宿している羊飼いたちを照らします。突然の天からの光に照らし出されて、怖じ恐れる羊飼いたちに、天使は《恐れるな》と言ってから、その理由をこう続けます。天使は恐ろしいことを告知するために来たのではなく、《わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる》ために来たのだから、と告げます。その大きな喜びの知らせとは、《今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった》ことです。ここの「あなたがた」は、この誕生物語ではイスラエルの民を指します。そのイスラエルの救い主メシアがやがて世界の諸国民の救い主と告知されるようになることこそが、ルカ福音書の主題です。
  天使は「今日、救い主がお生まれになった」と言っていますが、この「今日」は、何月何日の今日ではありません。イエスさまの誕生日は12月25日ではなくて、実際の誕生日は分かっていません。聖書における「今日」はいつも、福音が告げ知されるその日を指します。
  天使は「ダビデの子」の到来を待ち望んでいるイスラエルの民に「救い主」の誕生を告知します。今日「ダビデの町」に生まれた「救い主」が「主」であり、「メシア」(キリスト)であると、三つの称号を並べて、今日生まれた方がどのような身分の方であり、どのような働きをされる方であるかを指し示しています。天使はこのように告知した後、羊飼いたちがその方を正しく見つけることができるように、その方を指し示す「しるし」を与えます。その「しるし」が《布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子》という姿です。飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子こそが、「救い主」であり、「主」であり、「メシア」であるというのです。ここには大きなギャップ、裂け目があります。人の常識はこの裂け目を乗り越えることができません。
  羊飼いたちに現れて救い主の誕生を告知した天使が、ザカリアやマリアに現れた天使ガブリエルであったのかどうかは分かりません。この天使は高位の天使であり、その下で仕える大勢の天使たちが、この天使の告知が終わったとき突然、この出来事を与えた神を賛美する合唱に加わったのでしょう。天使たちの合唱が夜空に響き渡ります。《いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人々にあれ》。この天使たちによる賛歌は、御子イエスさまの誕生によって天と地がひとつに繋がることを告げ知らせています。つまり、天にある神の栄光が、御子によって地において平和となって現されるのです。平和(シャローム)は、神の栄光の地的表現の総称であって、和解、平安、繁栄、健康、救い、勝利といった意味合いをもっています。この賛歌は、祈りであり、そういう平和が救い主であるこの方によって実現するのだ、という告知であり、賛美でもあります。

  《15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。》
  一群の天使たちが天に戻って行ったとき、あまりにも不思議な出来事に茫然となっていた羊飼いたちは我に返り、《さあ、ベツレヘムへ行こう。主が(天使を遣わして)知らせてくださったその出来事を見ようではないか》と話し合います。ベツレヘム近郊の野で野宿していた羊飼いたちは、天使が言った「ダビデの町」がベツレヘムを指すことを直ちに理解して、ベツレヘムへ急ぎます。おそらく彼らはごった返すベツレヘム中の家々の戸を叩いて捜し回ったことでしょう。そして、ついに飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てます。
  《飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子》という光景を見た羊飼いたちは、直ちにこの場面こそ天使が自分たちに語った「しるし」であることを悟ります。そして、出産を世話したり祝福するためにそこに集まってきていた人々に、自分たちが天使のお告げを受けてここに来た次第を話します。彼らは出て行って町の人々にも知らせたのかもしれません。《聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った》とあります。
  この不思議な出来事の話を聞いてただ驚いている周囲の人たちと対照的に、《マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らして》いました。マリアが思い巡らした「すべての出来事」というのは、羊飼いたちが語った言葉とそれが指し示す出来事だけでなく、受胎告知からこの出産に至る「すべての出来事」を指していると見るべきでしょう。
  羊飼いたちは、ベツレヘムの町から出て、天使のお告げを受けた野宿の場所に帰って行きました。《見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだった》ことから、それが神から出たことであることを知り、神がこれから民のために大きなことを成し遂げようとしておられることを予感して、《神をあがめ、賛美しながら帰って行》きました。おそらく、羊飼いたちは天の大軍の賛美《いとたかきところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ》を歌いながら、厳しい現場に帰って行ったのではないでしょうか。私たちもまた、彼らと共に神の憐れみを賛美しつつ各々の現場に帰りましょう。


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