2017年7月16日  聖霊降臨後第6主日  マタイによる福音書10章16〜33
「迫害を予告する」
  説教者:高野 公雄 師

  《16 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。17 人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。18 また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。19 引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。20 実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。21 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。23 一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。》
  先週に続いて、十二人の使徒を伝道のために派遣するにあたって話された主イエスの言葉です。ここに記されている派遣の言葉は、決してわたしたちと無縁のものではありません。わたしたちは、主イエスによって選ばれ、教会に招かれ、祝福を受けて、それぞれに使命を与えられて、一週間のこの世の生活に向かって派遣されて出で行きます。きょうの最初のみ言葉、《わたしはあなたがたを遣わす》とは、そのような意味が込められているのです。
  《わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ》とあります。羊の群れの中に羊飼いを送るようなことではないのです。恐れや不安が満ちているこの世にこそ、神の御業と御言葉を伝えなくてはならないのです。伝道への派遣はまさに信仰の冒険への招きです。ですから、人間の小さな力からなる人間的な自信によってではなく、主イエスの励ましによってのみ伝道へと出で行くことができるのです。《だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい》とあります。これは、派遣する主に対して、また使命に対しては鳩のように素直でありながら、この世の策略からくる試練や誘惑に対しては、蛇のように賢明かつ機敏に対処しなさいという意味でしょう。
  この世はけっしてあなたがたの使信を素直に受け入れないで、敵意をもって対するのだから、《人々を警戒しなさい》と警告されます。弟子たちは、《地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる》というユダヤ教内部での迫害だけでなく、《総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる》と異邦の諸民族の中でも迫害を受けるのです。そのことを、主イエスはここではっきりと予告し、弟子たちに、わたしたちに、その覚悟を促しています。《引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である》と言われます。弟子たちがこの世へと遣わされていくのは、証しをするためです。どんな言葉で主イエス・キリストを宣べ伝えるべきか心配になります。しかしここで主イエスは、まさにその言葉をあなたがたは自分で用意しなくてよい、と教えておられます。イエスの名のゆえに苦難を受ける場こそ、神の霊がもっとも力強く働くのです。語るべきことは、その時その時に、父なる神の霊、聖霊によって与えられるのです。
  また、主イエス・キリストを宣べ伝え、主イエスによって実現している神の支配、救いを語っていくために、家族、兄弟の間にも不和が起こります。世に遣わされていく弟子たち、信仰者たちは、人々に受け入れられず、かえって憎まれ、苦しみを受けるのです。主イエスはここで必ず起るその苦しみ、迫害の中で、《最後まで耐え忍ぶ》ことを求めています。苦しみ、迫害の中で、忍耐をしていくのです。そして、《一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい》と教えられています。忍耐する、というのは、あくまでもそこに踏み留まることではありません。大切なことは、逃れの町においても、証しをし続け、主イエスによって遣わされた者として歩むことです。迫害が結果的に福音を広めていくことにもなりえます。
  そして、《はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る》とあります。弟子たちがイスラエルの町を回り終わらないうちに、もう間もなく終末が来るという意味に読めますが、この言葉はもう少し別の読み方もできるでしょう。弟子たちが主イエスから託された使命をまだ完全に果たし終わらないうちに、つまり、わたしたち遣わされた人間の働きはまだ不十分であり、まだまだやり残したことが沢山ある、それでも、神は救いを完成させてくださるということです。

  《24 弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。25 弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」》
  信仰者はこのように、この世において、苦しみの中で、忍耐しつつ生きるのです。すでに9章34に語られ、のちに12章22以下の「ベルゼブル論争」でくわしく語られるように、ファリサイ派の人々は、主イエスの悪霊追放のみ業は、悪霊の頭ベルゼブルの力によるのだと断定します。師であり、主人である主イエスがそんな扱いを受けるなら、その弟子であり、僕であり、家族の者である弟子たち、信仰者たちが、苦しめられ、拒絶され、迫害されるのはむしろ当然です。
  そして大事なことは、ここで主イエスがご自分とわたしたち信仰者のことを、「家の主人と《その家族の者》」と呼んでくださっていることです。これは、師と弟子、主人と僕という言い方を越える言葉です。わたしたちは、主イエスという家の主人のもとにいる家族とされているのです。主が受けた無理解と迫害の苦しみを、主の家族として共にするわたしたちは、主イエスの父なる神の守りと導きに身を委ねて歩み、聖霊が与えてくださる言葉を語っていくのです。

  《26 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」32 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」》
  この段落は、人々の前で主イエスを告白することを恐れるわたしたちに、《人々を恐れてはならない》、み言葉を述べ伝えよ、と説き勧めます。
  「覆われているもの、隠されているもの」とは、次の「わたしが暗闇であなたがたに言うこと、耳打ちされたこと」です。それは具体的には、「天の国は近づいた」という主イエス・キリストの福音です。主イエスにおいて、神の国、神の恵みの支配が始まっている、という知らせです。その主イエス・キリストの福音は、今は「覆われているもの、隠されているもの」なのです。
  わたしたちは、聖書の御言葉を通して、教会の教えによって主イエス・キリストのことを知ります。キリスト者とは、その隠された真実を示された者です。その真実を多くの人々に知らせることがわたしたちに与えられている使命です。この覆われているもの、隠されているものは、必ずあらわになり、はっきりと知られる時が来るという約束の言葉です。その時が必ず来る。だから、恐れないで、キリストの福音を宣べ伝え続けなさいと言われているのです。
  次の28節には、もう一つ新たに「恐れるな」とあります。《体は殺しても、魂を殺すことのできない者ども》とはわたしたちがこの世で出会い、恐れる人間たちのことです。その人間たちによって、体が殺されてしまうかもしれません。主イエスはそのような現実があることをはっきりと語ります。しかし、主イエスは「魂まで殺すことはできない者どもを恐れるな」と言います。ところがわたしたちは、その本当に恐れなければならない方を恐れずに、人間ばかりを恐れているのではないか。本当に恐れるべき方を見つめよ、それが28節の教えなのです。
  主イエスは本当に恐れるべき方である神を見ることを求めています。天の父は、わたしたちの髪の毛一本までも残らず数えています。それほどまでにわたしたちのことを愛してくださっています。本当に恐れるべき方は愛に満ちた父なる神です。この天の父を見出すことによって、わたしたちは人への恐れから解放されます。「恐れるな」と語られる主の励ましに支えられ、主に遣わされ、一週間の旅路へと向かって行く者となりましょう。


inserted by FC2 system