2017年7月23日  聖霊降臨後第7主日  マタイによる福音書10章34〜42
「平和でなく剣を」
  説教者:高野 公雄 師

  《34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。36 こうして、自分の家族の者が敵となる。37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」》
  きょうの個所も、イエスさまによって伝道へと遣わされる弟子たちに対する励ましが語られているのですが、まずはイエスさまの厳しい言葉から始まります。イエスさまがこの地上に来られたのは、平和をもたらすためではなく、《剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである》とあります。その言葉が意味することは、ミカ書7章6を引いて示されます。《人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる》。イエスさまがこの世に来られたことによって、つまりイエスさまを信じることによって、家庭内に不和が起こり、家族が崩壊すると言うのです。父や母、息子や娘という家族への愛よりも、イエスさまへの愛を優先させよということです。
  家族のきずなよりも信仰を優先させるこの要求は、多くのばあい、家族のきずなを破壊するものとして、福音に対する激しい反発を招きました。しかし、福音は、信徒を家族から引き離して閉鎖された教団に閉じ込めるカルト的宗教とは違います。福音は信じる者を血縁や伝統宗教の拘束から解放し、開かれた人間関係へと導き入れるのです。福音が家族に投じられた「剣」であるのは、一人ひとりをこのような開かれた人間関係へと解き放つためです。この信仰に生きるときに、わたしたちの間に色々な軋轢が生じます。信仰が家族の間でも理解を得られず、対立関係が生じてしまうこともあります。そのとき、わたしたちは信仰による苦しみを体験します。信仰をもって生きることには、喜びや平安だけではなく、このような苦しみが伴います。
  ですから、イエスさまは《わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない》と警告します。この「わたしにふさわしくない」は「わたしの弟子ではありえない」と同じことです。わたしたちが本当に愛し、依り頼んでいる相手は誰なのか、自分が持っているもの、自分の命・家族・様々な人間関係・財産・地位・名誉・健康か。それとも主イエス・キリストか、ということです。イエスさまの弟子として、信仰者として生きるというのは、自分の持っているものを愛し、それらに依り頼む生き方をやめて、イエスさまを愛し、イエスさまに依り頼んで生きていくことです。イエスさまはわたしたちにそのことを求めています。   このイエスさまのみ言葉は、単にわたしたちの家庭に不和をもたらし、敵対関係を生じさせようとしているのではありません。命を本当に得るためにはどうしたらよいのか、ということを言っているのです。イエスさまは言います。《自分の十字架を担ってわたしに従わないものは、わたしにふさわしくない》。イエスさまの弟子として、イエスさまに従って生きるということは決して簡単な歩みではありません。わたしたちは自分自身の中に弱さを持っています。それだけでなく、さらにこの世のさまざまな力に翻弄されます。「自分の十字架を担う」とは、わたしたちは苦しみや悲しみの中で、神の導きを忍耐して待たなければならないということです。この十字架は、わたしたちがイエスさまの後に従って行くことにおいて背負うものなのです。
  「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言われているのはそのためでしょう。イエスさまを信じるとは、「わたしのために」たとえ命を失うことがあっても、そこにはまことの命があると信じることです。つまり、本当の命がイエスさまのもとにこそあることを信じる者が、まことの命を得るのだと言われているのです。何か信仰的な業や行いによってまことの命が得られるというのではありません。イエスさまに愛されるにふさわしくないわたしたちを、イエスlさまは無条件に愛して、ご自分の命を与えられたのです。イエスさまは誰かを攻撃するために剣をもたらしたではなく、逆にその剣をわたしたちに代わってご自分が受けたのです。この独り子イエスさまにおいて、神は、わたしたちの罪と死とをご自分の上に引き受けられました。イエスさまは神の独り子としてわたしたちのすべての罪を背負って十字架にかかって死なれました。このイエスさまのもとに、まことの命があると信じることが信仰です。イエスさまを信じ、愛し、依り頼んで生きる者には、人間の力や思いを超えた慰めと励ましが与えられます。わたしたちは、そのイエスさまの慰め、励ましの中を歩むのです。

  《40 あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。41 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。42 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。》
  「あなたがた」とは、イエスさまが遣わされる弟子たちであり、「わたし」とはご自分を指しています。わたしたちが信仰に生きるとは、イエスさまの後に従うことであり、イエスさまに遣わされて生きることです。イエスさまは、「弟子たちを受け入れる」つまり「信仰者を受け入れる」ことは、「わたし」イエスさまご自身を受け入れるのと同じだと言います。イエスさまはわたしたちのことを本当にご自分の一部としてくださっているのです。そして、イエスさまを受け入れることは、イエスさまを遣わされた父なる神を受け入れるのと同じだと言います。
  そしてイエスさまは続けます。《預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける》。新約時代の預言者とは、町々を巡り歩いてみことばを宣べ伝える伝道者です。預言者と同じ働きをしなくても、預言者を預言者として受け入れる人は、預言者が受けるのと同じ報いを受けることができる。同じ報い、神の祝福、恵みを与えられる、共有する、というのです。
  この段落には、《受け入れる》という言葉が何度も出て来ました。この「受け入れる」には具体的な意味がありました。その伝道者を喜んで家に迎え入れる、わが家に迎え入れることを意味していたのです。そして、それは神を迎え入れることでもありました。イエスさまを遣わされた神を迎え入れる。自分の家に迎え入れることになるのです。わたしたち一人ひとりが、どのように扱い、扱われるかということが、その人の救いを定めるほどのことなのです。
  そこで、《わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける》と言われます。弟子の中の小さな者の一人に、つまりわたしたち信仰者の中の小さな一人に、冷たい水一杯を飲ませてくれる、そういう小さな好意を示してくれるだけで、神はその人を、信仰者と同じように報いてくださる、つまり主イエス・キリストによるまことの命にあずからせてくださる、というのです。
  冷たい水を一杯飲ませてくれるという小さな行為については、きょうの個所と似ている個所にも出てきます。《はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである》(マタイ25章40)。最も小さき者にした小さな行為の一つ、小さくてあまりにも値打ちもない行為でも、どんなに小さなことでも「わたしにしてくれたことなのである」、と主イエスは言います。この「小さな者」とは信仰者です。わたしたち一人ひとりのことです。そのわたしたちに、誰かが水一杯でも飲ませてくれたら、永遠の命を得ると言われたのです。それは、わたしたち一人ひとりが、主イエスにとってそれほどに値打ちを持っているということです。
  もし水を求めてくる相手が大きな存在、権力者、財産家であって、この水に十分に報いてくれると思える人であれば、ためらわずに提供するでしょう。しかし、まさしくそこで、主イエスの弟子たちは小さいのです。冷たい水一杯を提供する値打ちがあるかどうか、疑問に思うかもしれません。「小さい」とはそういう意味です。この人を尊び、愛する価値が、本当にあるのかと問わざるを得ないほどに、それほどに、主イエスの弟子たちはこの世において卑しく、力が弱く、無力で、この世の特権に生きる者ではなかったのです。しかし、弟子たちは初めから小さかったのではありません。イエスさまの弟子となることによって、イエスさまに従っていくことによって「小さい者」とされたのです。イエスさまは十字架への道を歩まれました。弟子たちはその後に従い、自分の十字架を担って歩みます。それは神の栄光を表すため、人を愛するため、イエスさまを信じて生きるためです。しかし、まさにそのゆえにこそ、「小さい者」となって、イエスさまと共に歩んでいきたいと思います。


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