2017年7月30日  聖霊降臨後第8主日  マタイによる福音書11章25〜30
「わたしのもとに来なさい」
  説教者:高野 公雄 師

  《25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。》
  「そのとき、イエスはこう言われた」と始まりますが、「そのとき」とはどのような時でしょうか。前の段落「悔い改めない町を叱る」(11章20〜24)で、イエスさまは、教えを述べ、数々の奇跡を行なったのに、悔い改めなかったガリラヤの町々をきびしく非難しています。この町々は、イエスさまのみ言葉を聞かず、み業を受けとめませんでした。続く12章1以下では、安息日の律法をめぐって、ファリサイ派の人々がイエスさまを受け入れなかったことが書かれています。そして、12章14には《ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した》とあります。イエスさまのみ言葉を聞かず、み業を受け入れず悔い改めようとしないだけではありません。イエスさまを批判し、殺そうとする動きが起こっていたのです。きょうの個所の「そのとき、イエスはこう言われた」とは、そのような現実への応答として語られたのです。
  「そのとき」、イエスさまは、《天地の主である父よ、あなたをほめたたえます》と、まず天の父なる神を賛美し、そして《これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました》と、神の恵みに対して感謝を言い表します。「これらのこと」とは、イエスさまが言葉と業をもって示された神の国の福音、神の恵みの支配が到来したことであり、それはまた、神の国の福音を告げ知らせ、悔い改めて神に立ち帰り、その恵みを受ける備えをしなさいという勧めもあります。
  当時の「知恵ある者や賢い者」というのは、ユダヤ教律法に精通した律法学者たちを指していました。そういう人たちにではなく、漁師や徴税人のような階層出身の弟子たち、律法の知識や訓練という点では幼児にすぎない弟子たち、そしてイエスさまに対して幼児の信頼をもって従う弟子たちに、「これらのこと」が啓示されたというのです。そのことを、《そうです、父よ、これは御心に適うことでした》という言葉で強調しています。少数の弟子以外の「知恵ある者や賢い者」がイエスさまを拒否したことは、けっしてイエスさまや弟子たちの失敗ではなく、それは神の大きな御計画の一部だと言うのです。
  「知恵ある者や賢い者」は、律法に精通していることから、律法を超えて与えられる啓示、すなわち無条件の恵みの神を告知するイエスさまを拒否したのです。律法を順守する自分の功績に立とうとする姿勢を変えることができませんでした。これはユダヤ教社会に限りません。ユダヤ教社会以外の世界でも、自分の知恵や知識に頼る者たちは、人間の知恵には愚かさの極みである十字架の福音を受け入れることができません。知者たちに拒否された十字架の福音は、これを信じる幼子たちを救いへ至らせるのです。
  では、神はどのようにして神の国の福音を示されるのか、こう語られています。《すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません》。イエスさまは、父なる神から、全権を委任されてこの世に来られた、ということです。イエスさまが神の子、救い主であることは、イエスさまをこの世に遣わされた父なる神のみがご存じです。また、神の子であるイエスさまは、ご自分の父である天地の主なる神をはっきりと知っていて、父なる神のみ心を実現しようとしているのです。そのように父と一体であるみ子、主イエスさまが父から任せられていることとは、父なる神をわたしたちに指し示すことであり、「これらのこと」を示すことなのです。つまり、神の国の福音は、子である主イエスさまが父を示そうとされたときに初めて分かるものです。わたしたちの信仰そのものも、じつは神の賜物、神が与えてくださるものなのです。そしてこのことこそ、神の国の福音が、知恵ある者や賢い者には隠され、幼子のような者に示された理由です。

  《28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」》
  いま見てきたみ言葉を前提として読むと、《わたしのもとに来なさい》という招きの意味がはっきりとします。「わたし」とは、神の子であり、父なる神からすべてのことを任せられている主イエス・キリストです。この方を通してこそ、父なる神を知ることができるのです。この方が示してくださらなければ、誰も父を知ることはできません。その主イエスのもとに行くことによってこそ、さまざまな重荷に疲れ果てているわたしたちに、まことの休み、安らぎが与えられるのです。この主イエス・キリストのもとで、わたしたちは、自分の重荷を本当に共に負っていてくださる方と出会い、安らぎを与えられるのです。
  《疲れた者、重荷を負う者》というのは、「律法の軛(くびき)」、すなわち、律法を順守する義務を負って苦しみ疲れている人たちを指します。もともとユダヤ人にとって、律法は重荷ではなく、選ばれた民の特権でしたが、この時代の庶民にとっては《背負いきれない重荷》(23章4)になっていました。そのような人たちに、イエスさまは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と呼びかけるのです。この「わたしの軛」は「律法の軛」と対照されています。このように、この言葉は「律法の軛」を負っているユダヤ人に、イエスさまの弟子となって平安を得るように呼びかけているのですが、もちろん、これはすべての国、すべての時代の「疲れた者、重荷を負う者」に対する呼びかけでもあります。イエスさまは救い主キリストとして、ご自分のもとに来る者を、人間にとって究極の重荷である罪と死の問題から解放して、魂に平安を与えてくださるのです。
  主イエスは、《わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい》と言われました。軛(くびき)とは、二匹の牛を首のところに木で作った道具をくくり付けて、二匹が一緒に動くようにするための農耕の道具です。「主イエス・キリストと一つに結ばれる」、そういう意味でイエスさまは「くびき」という言葉を使っておられます。そして「わたしに学びなさい」というのは、牛がこのくびきに繋がれて使われるときには、一方にはよく仕事に慣れた牛を繋いで、一方にはまだ余り慣れてない牛を繋ぎます。そうすると、仕事に慣れた方の牛が、うまく行動するので、もう片方の牛も、それにつられて、すべての行動が慣れた牛と同じ行動になるわけです。ちょうどそのように主イエス・キリストと一つにつながって生活をしていく。そういうことを、ここでイエスさまは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われたのです。
  キリストの「くびき」を負うということは、逆の方から見れば、わたしのくびきを主イエスさまが負っておられるということです。《わたしは・・・いつもあなたがたと共にいる》(28章20)と主イエスさまは約束しておられます。そのことに気づいたときに、わたしたちは「本当の慰め」を得ることができるのです。《そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる》とイエスさまは言われます。
  しかし、この主イエス・キリストと一つになるということは、たまたま私たちの苦しみ、その苦しみをイエスさまが一緒に負ってくださる、助けてくださるという、そのことだけではなくて、いわば神の救い全体にかかわることだということに気づかされます。主イエスさまは、わたしたちと一つになったために、わたしたちの持っているすべての罪の責任を自分のものとして背負われました。わたしたちが犯している罪を神は裁きますが、そのわたしたちに対する裁きを主イエスさまがご自分でお受けになった。これが十字架の贖(あがな)いです。罪のない主イエス・キリストがなぜ十字架にかけられたのか、それは、わたしたちのすべての罪を連帯して負われたからなのです。これが聖書の中で贖いと言われていることです。《わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである》というのはそういうことでしょう。
  主イエスさまが共につながっていてくださる「くびき」は、誰かから支配され苦しめられ、負わされる重い軛ではなく、主イエスさまご自身がわたしたちと共に負って、学ばせてくださる軛であるから負いやすいのです。そして主イエスさまが軛を負ってくださったことで、わたしたちの荷は軽くなるのです。「さぁここに来なさい」と呼びかけられたときには、わたしたちは一人で荷を背負っていました。しかも重荷です。しかし主イエスさまがその荷のことを「あなたの重荷」ではなく「わたしの荷」と言っておられます。わたしたちと共に軛で結ばれている主イエス・キリストはわたしたちの重荷を共に背負ってくださっているのです。わたしたちはもう一度このことを覚え、わたしたちの人生が、先の分からない暗い人生を一人で歩んでいるのではなく、主イエス・キリストと一軛となって歩んでいることをしっかりと心にとめたいと思います。そうしてこのような道を備えてくださった主イエスさまに感謝し、み名をほめたたえたいと思います。


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