2017年8月6日  聖霊降臨後第9主日  マタイによる福音書13章1〜9
「種まく人のたとえ」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。9 耳のある者は聞きなさい。」》
  イエスさまは集まってきた群衆に、《種を蒔く人が種蒔きに出て行った》と話し始めます。後の方の18節以下で、この「種」とは《御国の言葉》であると説明されています。わたしたちはすぐに、このたとえ話の「種を蒔く人」はイエスさまのことだと分かります。イエスさまはご自分のしていることを「種まき」として見ているのです。
  当時の種まきは、わたしたちの知っている農作業とはずいぶん違います。畑を耕して畝を作ってから種を蒔くのではありません。なだ耕されていない畑にじかに種をまきます。その後に全体を耕して、種に土をかぶせます。このような種まきの仕方は、気象条件が関係することですので、少し回り道をして、パレスチナの気候について確認しておきましょう。
  聖書の民はもともとは遊牧生活者でしたが、パレスチナに移住してからは、農業を営むようになりました。パレスチナは亜熱帯に属し、季節は冬と夏に大別されます。春と秋はその間の短い移行期間です。10月中旬から4月にかけては雨季であって、その他は乾季です。6月中旬から9月中旬まで雨が降りません。とくに7〜8月にかけては高温、過乾燥で作物栽培には適しません。申命記11章14に《わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたには穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の収穫がある》とありますが、これは雨季の始まりと雨季の終わりに降る雨のことです。「秋の雨」は10〜11月に降り、土をやわらげて耕すことができるようにします。大麦・小麦の種まきに必要な雨です。「春の雨」は3〜4月に降って、穀物を実らせるので、祝福の雨とされています。マタイ7章24〜27「砂の上の家」のたとえは、12〜2月に降る「冬の雨」による洪水を想定しているようです。

  さて、ルツ記では、初夏の刈り入れの時期にルツが麦畑で落穂を拾う場面が描かれていましたが、きょうの聖書は秋の種まきが背景になっています。麦は前年の10月の雨季に入る前に種を蒔きます。畑は干あがって雑草も生えていません。耕したら水分が蒸発してしまいますから耕しもしません。そうして種をまいたあと、10月に雨が降ると初めて土を耕すことができるのです。
  種は、手でつかんで畑の上に適当にばらまく、または穴のあいた種袋をロバなどに背負わせて適当に歩かせて蒔きますから、「道端」にも落ちることがあります。《道端》というのは、休耕中に人が通って固められた畑の中にできた小道のことです。ですから種が土で覆われることもなく、結果として芽を出す前に鳥の餌になってしまいます。また、パレスチナの土地はもともと石がとても多くて、畑の石拾いは大事な仕事でした。《石だらけで土の少ない所》というのは、石がたくさん残っている土の薄い畑のことです。石の上の種は、芽は出るのですが、残念ながら干からびてしまいます。ばらまいた種は茨の残っている所にも落ちます。《茨》は、パレスチナではどこにでも生えています。根が深いので、乾季にも耐えて、除草しても生き残ります。それが麦と一緒に伸びてくれば、そちらの方が強いので麦は実りません。これがその頃の「種まき」です。
  イエスさまはご自分の働きを、こんな「種まき」として見ていたのです。「種まき」であるとは、まず、そこには「無駄に見える労苦がある」ということです。種を蒔いても鳥に食べられてしまい、種を蒔いても枯れてしまい、種を蒔いても実を結ばないということがあるのです。無駄に見える労苦があることを、農夫は知っています。
  また、「種まき」であるとは、結果を見るまでには時間がかかる、ということです。種が蒔かれてすぐに芽を出すなら、このたとえ話のように、《土が浅いのですぐ芽を出した》だけで、枯れてしまうかもしれません。きちんと土に覆われたものが芽を出すには時間がかかります。ましてや実りを見るとなればさらに時間がかかります。ですから、農夫は忍耐強く待たなければならないのです。
  しかし、イエスさまの話はそれで終わりません。イエスさまが本当に言いたいことは一番最後にあります。《ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった》。
  「種まき」は収穫を信じて行うことです。確かに無駄はあるし、時間もかかりますけれども、必ず実りを見る。そう信じて種を蒔くのです。だから、そこには大きな喜びもあります。イエスさまはご自分のしていることを、そのような「種まき」に見ていたのです。
  実際に無駄に見えることはたくさんあったことでしょう。一生懸命に神の言葉を語り、救いの言葉を語っても、それを頑なに受け入れない人たちがいました。敵意を露わにしてくる人たちもいました。どんなに蒔いても芽を出さないのです。さらには信じたように見えた人たちも離れていきます。弟子たちでさえイエスさまを見捨てて逃げていくことになります。さらには神の言葉を語っている自分自身も十字架にかけられて殺されることになります。しかし、必ず芽を出し、百倍、六十倍、三十倍にも実る時が来ます。明らかに、イエスさまは収穫を期待する農夫のように種を蒔いていたのです。

  次に、わたしたちはこのたとえ話の「種を蒔く人」の中に、イエスさまだけでなく、弟子たちの姿、後の教会の姿、わたしたち自身の姿をも見るべきでしょう。イエスさまと同じように、教会は「種まき」の意識をもって、たえず宣教の業を続けています。収穫を望み見て、無駄に見えることに捕らわれず、時間がかかることに苛つかず、ひたすら大いなる収穫を期待して、喜びつつ種を蒔くのです。この福音によって必ず人が救われる。わたしたちの家族に、教会に、この社会に、救われて喜びに満たされた人が溢れるようになる。そのことを信じてわたしたちは種を蒔くのです。

  そしてさらに、この「畑」の中に、わたしたち自身を見ることも大事です。イエスさまは四種類の土地について語られました。道端、石地、茨の地、そして「良い土地」です。「四種類の土地」とは言いますが、実はイエスさまは、それぞれ別々の四つの場所について語っているのではなく、一つの畑の話をしているのです。この畑の中に自分自身の身を置くと、いろいろと見えてくることがあります。
  18節以下の解説で、イエスさまは言われました。《だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である》。イエスさまは続けます。《石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である》。さらに言われます。《茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である》。
  どれもこれも、自分に当てはまっていて、聞くのがつらいかもしれません。しかし、道端も石地も茨の地も良い地も、別々の場所にあるのではなくて、一つの畑の中の話です。ですから、道端がいつまでも道端のままではありません。次の年には石だらけの所から石が取り除かれているかもしれないし、次の年にも茨が生えているとも限りません。どこも良い土地となり得る、畑の一部なのです。主イエスさまは、今も収穫を期待して種を蒔いてくださっています。
  ですから、わたしたちは自分を悪い土地だと見限ったりしないで、実り豊かな者となる望みを持ちましょう。初めて福音に出会って理解できず、福音を受け入れることができなかったとしても、それで終わりではありません。福音を身に沁みて受け入れられるように、石を取り除き、藪を刈り取るという作業を時間をかけて忍耐強く続けるのです。そして、み言葉がわたしたちの内に留まって芽を出して実り始めるならば、どんなに素晴らしいことがそこから起こってくるか分かりません。わたしたちはそれほどに大きな可能性を秘めた畑なのです。わたしたちの内に始まる神の救いのみ業はわたしたちの内に留まりません。百倍、六十倍、三十倍にもなるのです。種を蒔く者として豊かな実りを期待するだけでなく、種を蒔かれる畑としても、多くの実りを期待しながら、熱心に神の言葉に耳を傾けていきましょう。


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