2017年8月13日  聖霊降臨後第10主日  マタイによる福音書13章24〜30
「毒麦のたとえ」
  説教者:高野 公雄 師

  《24イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。25人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。26芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。27僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』28主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、29主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。30刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』》
  毒麦は小麦とよく似ていて、穂が出てはじめて区別がつく雑草で、実(種)の中に寄生する菌類によって生じるマヒ症状を起こす毒があります。この毒麦を取り除けば、小麦の収穫も増やせるわけで、僕(しもべ)たちは一刻も早く抜き集めようとします。ところが主人は、《いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう》、と答えます。
  このたとえは、36節以下にその説明が書かれていて、「畑は世界」(38節)であり、「毒麦を蒔いた敵は悪魔」(39節)であるとあります。たしかに、この世界には良い麦と呼べるものだけが成長しているのではなく、毒麦も力強く成長しています。実際、この世界には悪魔の仕業としか思えないようなことが起こります。なんでこんなことが起こるのか、なんでこんなことが許されるのか、と疑問に思います。時として毒麦は良い麦以上に成長するものです。
  しかし、このたとえ話は、蒔かれた種とその成長だけを語っているのではありません。「刈り入れの時」についても語っています。《刈り入れは世の終わりのこと》(39節)とあるように、この世界はこのままで永遠に続くのではありません。刈り入れの時が来ると、毒麦は集められて火で焼かれる。すなわち、最終的に神が正しく裁くということです。神が正義を行われる。これが、このたとえ話の第一の意味です。

  「良い種を蒔く者は人の子」(37節)と書かれています。「人の子」とは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストの種蒔きは、世界の中でも特に「教会」に深く関わっています。そこでわたしたちは、このたとえ話の中に自分たちの身を置いて考えてみましょう。
  「毒麦」のところに身を置いてイエスさまの言葉を聞くと、どうなるでしょうか。「わたしは、教会に来てはいるけれど、本当は神から見たら毒麦かもしれない。こうして教会生活をしていても、最終的には毒麦として集められ、火で焼かれてしまうのではないか」、となるでしょう。ここでは、このたとえ話はたいへん恐ろしい話になります。
  一方、「良い麦」のところに身を置くならば、どうなるでしょうか。「毒麦はこの教会にもいる。あの人はぜったいに毒麦だ。今は、教会でいい顔しているけれど、最後には火で焼かれるにちがいない」、となるでしょう。教会がこのように「良い麦」に身を置いて考える人ばかりになったら、これもまた困った話です。
  さらに、このたとえ話には僕(しもべ)たちも出て来ます。僕たちのところに身を置いたら、どうなるでしょうか。《では、行って抜き集めておきましょうか》、となるでしょう。僕たちとすれば、毒麦は一刻も早く抜き取ってしまわなくてはならないのです。良い麦に害を及ぼすから、とにかく早く対処しなくては、となります。このように、「教会の中に毒麦が放置されていてはならない。抜き集めてしまわなくてはならない。教会は良い麦だけの教会でなくてはならないのだ」という考えは、教会の歴史の中に繰り返し現れました。
  このように、どこに身を置くかで、このたとえ話の中に見えてくるものが違ってきます。しかし、どこに身を置くにしても、大事なことは、そこから「たとえ話の中心」に目を向けることです。たとえ話の中心は、「主人」です。そして、その主人は常識からかけ離れている、実に奇妙な人なのです。
  常識的なのは、「僕たち」の方です。毒麦は実ればやっかいなことになります。そうなる前に、早めに対処しなくてはなりません。しかし、主人は「待った」をかけて、《刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい》と言うのです。その理由は、《毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない》ということです。たいていは根がからんでいるからです。しかし、毒麦を抜くときに、多少は良い麦も一緒に抜けてしまうのは、やむを得ないことです。それでも最終的に収穫が良ければ、それで良しとするのが合理的な方策です。
  この主人は異常なほどに、一本一本の麦にこだわります。そのように、神はわたしたち「ひとりひとり」の安全に異常なほどに関心を向けられるのです。ですから、刈り入れの時まで、終わりの時まで待つのです。神はそのような御方なのだ、ということです。神は、早急に裁くことをしないのです。終わりの時までは、純粋に良い麦だけの畑を求めてはいないということです。じっくりと忍耐をもって、時が来るまで待たれるのです。聖書が終わりの時の裁きについて語っているということは、言い換えるならば、その終わりの時までは、神は忍耐強く待たれる、ということでもあるのです。
  そこで、わたしたちはここで、このたとえは「イエス・キリストが語られた」という事実に目を向けなくてはなりません。そのイエス・キリストとは、わたしたちの罪を贖うために十字架にかけられて死なれた御方です。
  確かに神は良い麦と毒麦を一緒くたにはされません。「どちらであっても良い」とは言われません。最終的に、良い麦と毒麦を区別されます。《刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう》、と主人はっています。しかし、このたとえ話は、わたしたちの救い主イエス・キリストによって罪の赦しの扉が開かれているところで語られているたとえ話です。と言うことは、本来ならば滅びるはずの毒麦が、良い麦として倉に取り入れられる可能性があるということです。自然の農業においては、毒麦はあくまでも毒麦であって、良い麦にはなりません。しかし、神の農業においては、毒麦が良い麦になり得るのです。良い麦として生まれ変わることができるのです。罪の赦しがあるならば、そこには悔い改めと、新しい出発もあり得るのです。毒麦に留まっている必要はありません。
  もし神という主人が、あの僕たちの提案に従って、「今すぐ毒麦を抜き集めなさい」と言われる御方なら、わたしたちは、とうの昔に抜き集められ滅ぼされていたに違いありません。しかし、神はそのような主人ではありませんでした。神は終わりの日まで結論を出さずに待たれます。人がイエス・キリストを通して与えられた恵みを受け取り、罪の赦しにあずかって、良い麦として生き始め、良い麦として生き続け、そこで失敗したとしてもまた何度でもやり直し、最終的に良い麦として刈り入れられることを神は望んでおられるのです。そのことのために、神はどこまでも忍耐強くわたしたちに関わってくださるのです。
  《刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい》ということは、この世界も教会も、善と悪の混合物のようであるということです。教会は、つねに善とは似て非なるが混入する危険に直面していることを忘れてはなりません。それと同時に、わたしたちは、教会の弱さが神の絶対的真理を破壊し恵みを失敗に終わらせることはない、という慰めも忘れてはなりません。神の国の究極的な勝利は、教会の汚れも欠けもない道徳的純粋さに依存していない、ということです。神の恵みを受けているわたしたちは、あるときは主イエスさまに従う良い弟子であったのに、次には神の敵のように振る舞ってしまいます。岩と呼ばれたペトロでさえ、信仰告白して数分も経たないうちに、イエスさまから「サタン」と言われる出来事を起こしました(16章18〜23)。後にペテロは、《刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい》の言葉を思い起こして、それを《愛は多くの罪を覆う》(一ペテロ4章8)ことであると解釈しました。十字架にかかり裁かれた主イエスさまだけが、真に、終わりの時に悪を裁き、愛をもって神の国の勝利をもたらす御方なのです。
  《では、行って毒麦を抜き集めておきましょうか》、神はその提案に対して《いや》(否)と言われます。神は忍耐強い御方です。わたしたちは他の人に対して、早急に断罪するのではなくて、神の忍耐と寛容とを思いつつ関わっていくことが求められているのです。神の忍耐に促されるわたしたちの忍耐は、敵さえをも救いに招くイエス・キリストの十字架の祈りを響かせるものとなります。いや、他の人に対してだけではありません。わたしたちが本当に忍耐強く寛容をもって関わらなくてはならないのは、自分自身に対してであるかもしれません。自分をも「毒麦だ。抜いてしまおう」と言って早急に見限り、断罪してしまわないことです。本当に大事なことは、毒麦が発見されることでも、毒麦が抜き集められることでもないからです。いつでも大事なことは、毒麦が良い麦に変えられていくことです。


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