2017年8月20日  聖霊降臨後第11主日  マタイによる福音書13章44〜52
「天の国は隠された宝」
  説教者:高野 公雄 師

  《44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。   45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。   47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」》
  きょうの個所では「天の国」について三つのたとえが語られます(今回、51〜52節は省きます)。最初の二つのたとえは似ていて、まず44節で、「天の国」が畑に隠されている「宝」にたとえられます。宝を見つけた人は小作人なのでしょう。その人はそのまま隠しておいて、喜びながら帰りました。そして、自分の持ち物をすっかり売り払って、その畑を買いました。45〜46節では、「天の国」は「高価な真珠」にたとえられています。高価な真珠を見つけた人は「商人」です。「天の国」は高価な真珠であり、値高く、素晴しいものだということです。それを見つけた商人はたいへん喜びます。自分の持ち物をすべて売り払って、その代価を払い、手に入れます。イエスさまはこの二つのたとえを通して、「天の国」はそれを得るためにすべてのものを売り払っても決して惜しくはない価値のある、貴重なものであることを説いています。
  イエスさまの言う「天の国」とは、いわゆる「天国」、「死後の世界」ではありません。「天」というのはマタイが「神」を言い換えた言葉であって、他の福音書では「神の国」となっています。神の国とは、神が支配するということです。どこかにある場所ではなくて、神が恵みと愛によってこの世界を支配しておられるという、神の働きかけを言うのです。ですから、「天の国」、「神の支配」の知らせは、神がこの世界の支配者として働きかけていることを、わたしたちがイエス・キリストと出会うことによって知って、その応答としてわたしたちが神の恵みの支配のもとに喜んで入るようにという招きなのです。
  人々はみな宝を捜していると言うことができるでしょう。お金を宝として思いそれを捜すのに自分の全生涯を投資する人もいます。名誉や愛を宝として捜し求めている人もいます。学問を宝と思う人もいます。もちろんそれらのものはその人にとって宝のようなものです。それを見つけた時には喜びや満足もあります。しかし、人はだれでも、イエス・キリストを通して恵みの神がここにいますことを知るとき、その神と共にあることが自分のすべてのもの、いのちを犠牲にして捜し求めるほどの価値ある宝となるのです。
  ところが、天の国すなわち神の支配は、「畑に隠された宝」のようなものです。「真珠」にも、もともと「人の目に隠されている尊い宝」というイメージがあります。宝も真珠も隠されていて見えないのです。実際、自分の人生に起こること、この世界に起こることに神の支配は隠されていて見えません。むしろ「神がいるなら、なぜこんなことが?」と言わざるを得ないことが起こります。
  しかし、そのような世界のただ中で、ある人は宝を見出すのです。今まで見えていなかったものを見るようになる。すなわち、神の支配があることを知るのです。自分は完全に神の支配の中にあること、神は自分にも計画を持っていてくださり、その愛のみ手をもって完全な救いの世界へと導き入れようとしていてくださることを知るのです。
  「畑に隠された宝」の場合、偶然に発見したという印象を受けますが、「真珠」の場合は苦労して捜し回った結果です。天の国が発見されることも偶然の出来事のように信じる者もいれば、長い求道の後に初めて信じる者もいます。いずれにしても、そのことを知った人は、その神の愛の支配の中にあることを喜んで生きていきたいと願うようになります。パウロはこう言っています。《わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです》(フィリピ3章8)。何かを得るためには何かを犠牲にしなければなりません。しかし、ここは「捨てる」よりも「得る」ことの方に重点が置かれています。これは、ユダヤ的考え方によれば、「より値打ちのないもの」で「より値打ちのあるもの」を手に入れる賢いやり方でもあります。人は神の支配の中に生かされていることを知るとき、このたとえ話に登場する人のように喜びに溢れて、いそいそと持ち物を売り払う人のように生きていくことができるのでしょう。イエス・キリストは最高の宝です。わたしたちのすべてを犠牲にしても惜しむことがない方です。このイエスさまを見つけた人々はイエスさまを得るために惜しまず自分の人生を投資しました。そして決して後悔しませんでした。
  これが聖書の語る信仰生活です。実際、迫害の時代のキリスト者は、文字通り不当な仕方で自分の持ち物や自分の命さえも奪われることを良しとしたのです。宝が見えていたからです。ただ奪われることを良しとしただけではありません。むしろ、積極的に捧げて生きたのです。自分の命、自分の人生を捧げて生きました。自分の時間、自分の能力、持ち物、お金、あるいは文字通り「いのち」を、誰かを愛するために、誰かの救いのために、捧げて生きたのです。その人にとっては、どんな犠牲さえも、いわば宝を思って胸を躍らせて、持ち物を売りに出すようなものだったのです。このように宝を得るために苦難の生涯に自分を投げ出した人たちが連綿と続き、そのような人たちの中に「天の国」が保持され伝えられてきたのです。そのような人々がいたからこそ、今のわたしたちもいるのでしょう。
  そのように畑に隠された宝を思って生きる。それが信仰生活です。大切なことは、畑に宝が隠されていることを知り、畑に宝を見出すことです。そして、そのためにこそイエスさまは来てくださったのです。この宝が、本当にかけがえのない宝であることは、イエス・キリストを見つめることによって分かってきます。それは単に何かいいことがあるとか、わたしたちの願いがかなうというような小さな、あるいはその場限りの事柄ではありません。イエス・キリストによってわたしたちに示されているのは、神がわたしたちを愛していてくださるということです。しかもそれは、ご自分の独り子を与えてくださるほどの愛です。イエス・キリストは、わたしたちのために、わたしたちの罪をすべて背負って十字架にかかって死なれました。つまりすべてを捨てて、わたしたちのために尽してくださったのです。天の国、神の支配は、このような恵みによる支配です。わたしたちも、教会にはその隠された宝があることに気づかされて、教会に通い続けるようになった者です。

  そして最後に、47節以下に三つ目のたとえ話が置かれています。湖に投げ降ろされた網のたとえです。地引網のような網でしょう。いろいろな魚がそれこそ一網打尽に捕らえられます。この集められた魚の群れには、良い魚も悪い魚もいます。売り物になる魚、売り物にならない魚ということでしょう。そのような良い魚と悪い魚がすべて混在しているということです。49節の言葉で言えば「正しい人々」も「悪い者ども」もいるということです。その両者が混在しているということです。この世界の現実を表しています。つまり、神の支配、天の国は、隠されていて、誰の目にもはっきりと見えるわけではないのです。しかし、その隠された神の支配が顕わになる日が来ます。49節には《世の終わりにもそうなる》とあり、これは、この世の終わりの神の裁きのことを語るたとえです。岸に引き上げられた魚は、良い魚と悪い魚が分けられるのです。イエスさまは「天の国は最後まで隠れたままで終わらない」と教えているのです。天の国、神の支配が完全に現れるときが来ます。世の終わりは、イエスさまが再び来られるとき、救いの完成のときです。そのときに、この世界の支配者が誰であったのかがはっきりします。天の国、神の支配は、そのときまでは隠されているのです。
  このように、神の裁きが必ず行われることが語られるのは、弟子たちを、わたしたちを恐れさせ、神の裁きにびくびくしながら生きる者とするためではありません。終末についてのメッセージは、本来、神の判断で何が「良し」とされるかを明確に示し、その神の判断にかなう生き方をするように決断を迫るメッセージなのです。世の終わりの裁きを見つめつつ生きることは、神の隠された支配を信じて、今のこの世を忍耐と希望をもって生きることなのです。だから、怒りや恨みによって命を費やしてはならないのです。大切なことは宝を思うことです。そして、喜びに溢れながら、本当に捧げるべきことのために命を捧げ、本当に用いるべきことのために命を使って生きることなのです。


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