2017年8月27日  聖霊降臨後第12主日  マタイによる福音書14章13〜21
「五つのパンと二匹の魚」
  説教者:高野 公雄 師

  《13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。》
  きょうの個所の直前に、洗礼者ヨハネが領主ヘロデによって首をはねられて殺されたことが記されています。その知らせがイエスさまのもとに届けられました。《イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた》とあります。ご自分もまた十字架の死に向かって生きていることを深く受けとめて、ひとりになって祈るために人々のもとを離れたのでしょう。しかし、イエスさまが舟に乗って出て行かれたことを耳にすると、群衆は湖畔を歩いて後を追いかけ、先回りして待っていました。そこで、《イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた》のです。
  イエスさまの憐れみの眼差しは、病人と病人を連れてきた家族の上に置かれます。彼らの苦しみは、ただ病気であること自体の苦しみではありませんでした。病気になると、とくに「汚れている」と見なされる病気になると、それは罪を犯したからだ、と言われます。彼らは神から嫌われている、見捨てられていると見なされていたし、自分たちもまたそう思っていたのです。その他にも、イエスさまについてきた人たちの中には、宗教家たちから「罪人」と見なされている人たち、ユダヤ人の戒律社会からはじき出された人たちが大勢いました。彼らもまた、神から忌み嫌われていると見なされていたし、自分でもそう思って生きてきたのです。
  イエスさまが見ていたのは、羊飼いから見捨てられていると思っていた羊たちでした。ですから、マルコによる福音書の方にはこう書かれています。《イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた》(マルコ6章34)。それゆえに「その中の病人をいやされた」のです。それは、彼らを本当に生かすことのできる、まことの羊飼いなる神が、憐れみをもって関わり、彼らもまた神の国に招かれていることを示すしるしでした。イエスさまの憐れみは、たんに彼らが病気や苦労の多い日々の生活に疲れ果てていることに対するだけのものではなく、まことの牧者がいないために神の民としての真理の道に歩むことができず、祝福を失い、神の裁きの下に散らされていく者たちへの憐れみです。

  《15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」》
  イエスさまが群衆と共に過ごしているうちに、すでに夕暮れになりました。夕食の時間帯です。弟子たちはイエスさまのもとに来て言いました。《ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう》。弟子たちの提案は理にかなっています。ところが、イエスさまの答えはじつに驚くべきものでした。《行かせることはない。あなたがたが(原文は強勢です)彼らに食べる物を与えなさい》。
  これまで、群衆と向き合っていたのはイエスさまでした。「飼い主のない羊のような有様」に真に心を痛めて憐れみの眼差しを向けていたのはイエスさまでした。彼らに神の国を語り、彼らの中の病人をいやし、彼らには羊飼いがいること、神が愛してくださっていることを示していたのはイエスさまでした。しかし、今度は弟子たち自身が人々と向き合うようにと押し出されたのです。
  そこで彼らは、初めて自分たちの貧しさに直面せざるを得なくなりました。群衆と向き合わされて、彼らは自分たちの持っているものでは、どうにもならない現実に直面することになりました。彼らはこう叫ばざるを得ませんでした。《ここにはパン五つと魚二匹しかありません》と。このような弟子たちの姿は、わたしたち自身の現実ではないでしょうか。わたしたちがイエスさまに遣わされて、まことの羊飼いを見失ったこの世界とその悲惨な現実のただ中にあることを自覚するや否や、たちまちその貧しさに直面せざるを得なくなります。

  《18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。》
  ここで、きょうの聖書はわたしたちに一つの大事なことを指し示しています。それは、パン五つと魚二匹を手に途方に暮れている弟子たちと共に、そこにはイエスさまがおられるということです。もともとイエスさまは、彼らがほとんど何も持ち合わせていないことをご存じなのです。そこでイエスさまは弟子たちにこう言われました。《それをここに持って来なさい》と。この言葉は、イエスさまが積極的に関与することを表しています。
  そして、イエスさまは、弟子たちの持っている五つのパンと二匹の魚を、神の前に差し出し、賛美と感謝を表されます。その喜びの声が、弟子たちと群衆たちの上に響き渡たりました。そしてそのイエスさまの祈りの言葉とともに裂かれ、分け与えられたパンを弟子たちはイエスさまの手から受け取って、群衆に与えたのでした。そして、聖書は、《すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった》と伝えています。彼らは食べて満腹して喜んだのです。弟子たちの持っていたわずか五つのパンと二匹の魚は五千人を超える人々の前では何の役にも立たないと思われるものです。それをイエスさまが用いてくださり、大きなみ業をしてくださったのです。イエスさまが、弟子たちの、つまりわたしたちの持っている小さなもの、力とも言えないような僅かな力を、神のみ前で喜んでくださり、神への感謝と賛美の中でそれを用いてくださることによって起こるのです。
  どうしてそんなことが起こり得ようか、人はそう思うでしょう。実際、この奇跡がどのようにして起こったのかはまったく記されていません。ただその結果が伝えられているだけです。ですから、わたしたちはその様子を具体的に思い描くことができません。人にはとうてい理解できない不思議なことが起こったことを伝えているのです。ここで語られているのは、わたしたちの合理的な解釈を拒否する「神の奇跡の働き」であること、まさにそのような不思議が、イエスさまの信仰を通して実現したこと、このことを伝えようとしているのです。
  しかし、この物語において、一つだけはっきりしていることがあります。それは、群衆が満たされたとするならば、それは明らかに、弟子たちに由来するものによってではなかった、ということです。弟子たちがもともと持っていたものによるのではなく、キリストに由来するものによって、群衆は満たされて神の国の喜びを味わったのです。弟子たちはただ運んだだけです。

  さて、《天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった》。そう書かれていました。実は、この福音書を読み進んでいくと、もう一度、この言葉に出会うことになります。それは最後の晩餐の場面です。《一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」》(マタイ26章26〜28)。
  ガリラヤの青草の上でパンを裂いて渡されたイエスさまは、最後の晩餐でふたたび弟子たちにパンを裂き、《これはわたしの体である》と言って渡すことになります。その言葉のとおり、イエスさまはパンだけでなく、自分自身の命をも人々に渡すつもりだったのです。その翌日、イエスさまは十字架にかけられ、脇腹からは尊い血が流されました。その流された血は、わたしたちの罪を贖うために、多くの人のために流された血でありました。わたしたちが罪を赦された者として神の国への招きに応えられるようになるためです。
  きょうの個所が伝えるパンの奇蹟は、後にイエス・キリストの十字架において実現する救いのみわざを指し示すしるしです。その救いの恵みを受け取って、神との交わりの中に回復されて、はじめて人々は本当の意味で満たされることになるのです。わたしたち教会の務めは、イエスさまが自らを裂いて手渡してくださったご自身のからだ、イエスさまが流してくださった贖いの血を、人々に手渡すことです。まことの羊飼いなる神を失ったこの世界が本当に必要としているのは、イエス・キリストによる罪の贖いと新しい命だからです。


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