2017年9月3日  聖霊降臨後第13主日  マタイによる福音書14章22〜36
「湖の上を歩く」
  説教者:高野 公雄 師

  《22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」》
  イエスさまは五つのパンと二匹の魚をもって、五千人の大群衆に食べさせました。その場は人々の興奮の渦に包まれていたことでしょう。しかし、イエスさまはそんな群衆から弟子たちを「すぐ」に引き離して、彼らを「強いて」舟に乗り込ませ、向こう岸へと送り出しました。その一方で、お祭り騒ぎになっている群衆を自らの手で急いで解散させたのです。そして、自らも群衆から身を隠して、ひとり山に登り、祈りの時を持たれたのでした。
  なぜ弟子たちは群衆から「すぐ」に引き離されなくてはならなかったのでしょうか。前の場面で、《弟子たちはそのパンを群衆に与えた》(19節)とありました。多くの人々にパンを手渡して、彼らの喜びを見、彼らの驚きと感謝の言葉を聞いた弟子たちは、自分が感謝を受けるべき何者かにでもなったかのように、思い込んでしまうかもしれません。人々のために何かを行い、そのことに感謝されるとき、そこにはいつでも高ぶりの誘惑があります。自分は神の恵みを運んでいるに過ぎないのだ、という自覚をつねに持ち続けることは難しいことです。そのためには、ときとしてこの場面のように、喜び感謝する人々から引き離されて、自分の無力さを思い知らされるということも必要なのです。
  イエスさまは弟子たちだけを先に向こう岸へと送り出されました。そこで弟子たちは逆風と波に悩まされることになるのです。大波にもまれて今にも沈みそうになっている弱々しい小舟。それは弟子たちの将来を指し示す前触れに他なりませんでした。それは後の教会の有り様を予告するものでもありました。キリストの弟子であるということは、必ずしも人々から賞賛され、感謝され、偉大な者と見なされるようになることではありません。むしろ、さまざまな敵意や困難に直面し、まるで逆風と大波にもてあそばれる小舟の中にいるように、自分たちの弱さや無力さと向き合わざるをえないようになります。そのことをイエスさまは彼らに前もって示されたのです。
  しかし、それだけではありません。本当に重要なことは、嵐のただ中にイエスさまが来てくださるということです。悩みと恐れのただ中にキリストが来てくださるということです。次のように書かれています。《夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた》。この「湖」は原文では「海」です。聖書において、海(とそこに溢れる水)は、死と悪魔的な力を象徴するものとされてきました。ですから、世の終わりに現れる新しい天と新しい地には《もはや海もなくなった》(黙示録21章1)と記されています。
  イエスさまがどのように海の上を歩いて来られたのか、わたしたちには分かりません。しかし、それが意味することは分かります。荒れ狂う「海」がどれほど大きな力を持っているとしても、それはあくまでもキリストの足の下にある、「海」は主の支配に服するということです。弟子たちを苦しめ悩ませている悪の力に勝利する主の権威と力について、イエスさまは最後の晩餐の席で弟子たちにこう言われました。《あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている》(ヨハネ16章33)。
  もっとも、そのようなイエスさまが近づいて来られることは、最初は弟子たちの喜びにはなりませんでした。イエスさまを認識できなかったからです。彼らは《幽霊だ》と言っておびえました。波と風のことで頭が一杯になっている時、不安や恐れに捕らわれてしまっている時には、どんなにイエスさまが力強く臨んでくださっても、それが分からずに、かえって不安と恐れが募るばかりです。残念ながら、わたしたちにもそのようなことが起こります。
  しかし、そのような弟子たちに、イエスさまはすぐに《安心しなさい。わたしだ。恐れることはない》と話しかけられました。このイエスさまの言葉はいま聖書を聴くわたしたちに対しても、強く語りかけてくださっている言葉です。この「安心しなさい」という言葉は、原文では先ほど引用したヨハネ16章の「勇気を出しなさい」と同じ言葉です。そして、マタイ9章で中風の男に言った《元気を出しなさい》(2節)も、出血が続く女に言った《元気になりなさい》(22節)も原文では同じ言葉です。ですから、ここで言われているのはただ「幽霊ではない。わたしだ」と言うだけのことではありません。《わたしだ》とは、「わたしがいる」という意味でもあります。つまり、イエスさまはその言葉によってご自分を示して、「わたしがいるではないか。安心しなさい。勇気を出しなさい。元気を出しなさい。恐れることはない」と、そう言ってくださっているのです。

  《28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。》
  ペトロはその言葉を聞いて、自分自身も海の上に立ち、イエスさまのもとに行こうとしました。ペトロは「来なさい」とのイエスさまの言葉を聞いて、水の上をイエスさまのもとへ歩んでいきます。ここで強調されているのは、ペトロの勇気ではなく、イエスさまの言葉とその力です。イエスさまの言葉を聞き、イエスさまの言葉に従うとき、彼は海を足の下に踏んで歩くことができたのです。風が止んだわけではありません。波が静まったわけでもありません。しかし、彼はもはや海に翻弄される者ではありません。いかなる力も彼を滅ぼすことはできません。わたしたちは信仰によってイエスさまと共に海の上に立つのです。それがこの聖書個所が語っている一つのメッセージです。
  しかし、それはあくまでも一面に過ぎません。じつは、この聖書個所が本当に語ろうとしていることの中心は、ペトロが海の上を歩いたことよりも、むしろペトロが沈んだこと、そして、そのときにイエスさまがどうされたかにあるのです。
  しばらく行くとペトロは強い風が吹いていることに気付いて、恐れに捕らわれます。そして水に沈み始めます。イエスさまはそのようなペトロの心の動きを「疑い」と呼ばれました。《なぜ疑ったのか》とイエスさまは言われるのです。「疑い」とは、もともと二つの方向に進んでいくことを意味する言葉です。ペトロの心は一方においてイエスさまとその言葉のほうに向かいますが、もう一方で彼の心は風と波に向かって、二つに分かれてしまいました。するとペトロは、水にのみ込まれようとします。ここは、「沈む」よりも強い感じの動詞が使われています。
  わたしたちも「自分が沈んでいく」ということをさまざまな形で経験することがあるでしょう。しかし、沈みながら、ペトロの心はイエスさまに向かいました。ペトロはイエスさまに向かって叫びます。《主よ、助けてください》。沈み行くとき、そこでイエスさまなくしてはただ沈んでいくだけだと悟った人は幸いな人です。ペトロが、「主よ、助けてください」と叫び求めると、《イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ》と書かれています。ありがたいことに、イエスさまは、「すぐに」、すかさず、手を伸ばして、ペトロを捕まえてくれたのです。
  イエスさまはペトロに《信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか》と言われました。問題は彼の二心にありました。これがしばしば現実の教会の姿であり、キリスト者の姿です。わたしたちも繰り返し「信仰の薄い者よ」という言葉を聞かなくてはならない者です。
  この出来事は、沈みそうな小舟に近づいてきてくださるイエスさま、信仰が薄いために沈んでいくペトロにすぐに手を伸ばしてくださるイエスさまを伝えようとしているのです。世々の教会は「主よ、助けてください」を繰り返さなくてはならなかった教会でした。わたしたちも同じです。しかし、「助けてください」と祈ることさえできるなら、大丈夫です。わたしたちに手を伸ばしてくだり、しっかりと捕まえて離さないイエスさまがおられますから。
  この物語は、《舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ》、と締めくくります。イエスさまに対する信仰告白です。ここに教会があります。ここで主語を「弟子たちは」と特定しないで、「舟の中にいた人たちは」と不特定多数であるのは、嵐の中で漕ぎ悩む教会、そのメンバーであるわたしたちのことを指しているからだと思います。どうか、主が教会を支え、わたしたちを助けて、嵐の中にあっても、なお前を向いて航海していく勇気と力をお与えくださいますように。


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