2017年9月10日  聖霊降臨後第14主日  マタイによる福音書15章21〜28
「カナンの女の信仰」
  説教者:高野 公雄 師

  《21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。》
  イエスさまはそれまで活動をされていたガリラヤ地方から、現在のシリアのフェニキア地方に移動をされました。ティルスやシドンという町はフェニキア地方の地中海に面する、貿易によって栄えて来た港町です。イエスさまはイスラエルから出て、異邦人の地へ行かれたのです。しかし、イエスさまは、《わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない》と言っています。
  それでは、なぜイエスさまは異邦人の地へ行かれたのでしょうか。このときのイエスさまを取り巻く状況はこの章の始めに、《そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。・・・」》(15章1〜2)と記されています。イエスさまのことを何とかしなければならないという動きが、次第に露骨になってきました。このようなユダヤ人の指導者たちの動きが結局はイエスさまを十字架にまで追い詰めていくことになるのです。そのような状況なので、イエスさまはしばらくユダヤ当局の人たちから身をかわして、静かに心の備えをしようと思われたのでしょう。マルコ福音書はこう記しています。《イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった》(7章24)。
  ところが、そのようなイエスさまの意図を破るような出来事が起こりました。自分の娘が悪霊に苦しめられている母親がイエスさまの前に現れたのです。その女性の名前は記されておらず、ただ《この地に生まれたカナンの女》とだけあります。シリア・フェニキアをあえて旧名の「カナン」と言い直しています。「カナン」は旧約時代から伝統的に異教の地と見なされていて、かつ「カナン」はイスラエルによって征服された歴史を持っています。この呼び名には、カナンの住民に対するユダヤ人の優越意識が強く現れています。
  このカナンの女は、《主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています》と叫びます。ここには、三度におよぶ女の願いが繰り返されていきます。それに対してイエスさまも三度、対応されています。誰も治すことできなかった娘の苦しみを抱え、その救いをイエスさまに求めたのです。「主よ、ダビデの子よ」と彼女は言っています。それはイスラエルの民の救い主を意味する言葉です。また「わたしを憐れんでください」という願いの言葉は、信仰のすべての願いを簡潔に述べた言葉です。後の教会はこの願いを、「キリエ・エレイソン」という言葉で定形化して教会の祈りとなし、礼拝において繰り返し祈ってきました。
  この女性の心の奥底から絞り出されるような叫びに対して、《しかし、イエスは何もお答えにならなかった》のです。ユダヤ人の男性が異邦の女性に口を利くはずがないことは分かっていても、このイエスさまの最初の反応は母親にとってはショックでしょう。イエスさまにのみ希望をおいて、必死になって助けを求めているのに、イエスさまは何も答えてくれないのです。わたしたちはこのイエスさまの沈黙をどのように、受け止めたらよいのでしょうか。イエスさまはわたしの苦境に無関心であり、わたしのことなどどうでもよいと考えているのでしょうか。しかし、この女性は諦めません。助けを求めて叫び続けながら、イエスさまの後を追います。
  《イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」》。弟子たちは、この女があまりにしつこく叫び続けるので、うるさくてたまらないから早く追い払ってほしいと思ったのでしょうか。あるいは、異邦の女と関わりになるのを恐れたのかもしれません。
  ここでの「追い払う」という言葉は、「立ち去らせる」と「解放する」の意味があります。新共同訳は「立ち去らせる」の方をとりましたが、ある聖書学者は、解放する」の方の意味にとって、この時の弟子の思いを「いつも、あなたがそうしておられるように、どうぞ娘を癒し、彼女を助けて解放してやってください」という意味に解釈します。しかし、一般にはここは「追い払う」の意味に理解されています。
  弟子たちの思いがどのようなものであったかは、はっきりしません。しかし、弟子たちのこの言葉がイエスさまと苦しみの中にいる母親の関係の距離を縮める結果となりました。沈黙を守っていたイエスさまが、弟子たちの願いに対して、《わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない》と答えたのです。「羊」とは旧約聖書以来、イスラエルのことを指しています。このイエスさまの答えは、またしても、異邦人であるこの母親の願いを拒絶するものでした。それでも、弟子たちに向けたものではあっても、彼女はやっとイエスさまの言葉を聞くことができました。この女性は諦めず、屈しません。彼女は体を投げ出して行く手をふさぐかのように、イエスさまの前にひれ伏して、《主よ、どうかお助けください》と願います。このような女性の態度に対しても、イエスさまはなおもこの求めを拒むような言葉をもって答えます。《子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない》。このイエスさまの言葉は、先の24節の答えをくわしく言い換えたものです。ここでは、「小犬」は異邦人のことであり、「子供」はイスラエルの民のことです。「パン」はイエスさまが宣べ伝える神の国の救いを表します。わたしたちは、ここで人間のことを「子犬」になぞらえるとは、何事だと思います。また「犬」は、律法を知らない者たちをさげすむ言葉であり、このことから犬は異邦人に対する蔑称でした。
  しかし、犬という言い方であっても、ここでイエスさまは初めて彼女のことを子犬とたとえて、彼女を初めて正面から見据えてくださって、そこに、実のある対話が始まったことに、彼女は希望を見出したのです。彼女はすかさず言います。《主よ、ごもっともです》(直訳は「然り、主よ」文語訳、「Yes, Lord」RSV他)。この言葉には、喜びの響きがあります。
  この女性は、イエスさまが「子犬」と言ったのを受けて、とっさに、街路でゴミをあさる一般的な犬から、家で飼われるかわいい「子犬」へと、そのイメージを移し替えます。その上で彼女は、自分を子犬にたとえて、《主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます》と切り返したのです。「小犬も主人の食卓のおこぼれにあずかることができるはずです。それは子供のパンを取り上げることではありません。小犬は子供の有り余るパンを与えられて、子供も小犬も一緒に満腹できるはずです。イエスさまの救いはイスラエルを満たすだけにとどまりません。さらに、この異邦人の地にも溢れ出して、子犬たちをも豊かに満たします。この二つのことは両立するのです。イエスさまは、ご自身の使命を曲げることなしに、このわたしの願いを聞き入れてくださることができます」、彼女はこう信じて、祈り求めました。
  これは驚くべき機知、知恵です。彼女のうちには、イエスさまの言葉にあえて逆らってまで、厳しい壁を試練として乗り越える強い信仰が働いているのが分かりますから、イエスさまは彼女の言葉を聞いて感心し、これを受け容れたのです。《婦人よ、あなたの信仰は立派だ》、イエスさまはカナンの女性に対してこのように答えたのです。そして、また《あなたの願いどおりになるように》とイエスさまは言われました。そして、《そのとき、娘の病気はいやされた》と記されています。イエスさまはこのカナンの女の願いを叶えられたのです。   きょうの聖書には、このカナンの女の謙虚さと、イエスさまに対する深い信頼が示されています。また、この女の期待が明らかにされています。彼女にとって、耐え難いほど厳しいイエスさまの言葉に反論することなく、ただイエスさまのお言葉が正しいと認めつつ、なおも執拗に神の憐れみを求めています。つまり、イエスさまとの出会いにおいて、この女性は自分を、パンをいただく資格のある子供ではなく、資格のない小犬の場に置いたのです。このように自分を無資格の場に置いて、神の恵みだけに身を委ねる姿が信仰です。この異邦人女性はイエスさまの憐れみだけに縋ることによって神の恵みの支配に飛び込みました。こうして、異邦人が信仰によって神の民に加わることを、マタイは語っているのです。


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