2017年9月17日  聖霊降臨後第15主日  マタイによる福音書16章13〜20
「ペトロ、信仰を言い表す」
  説教者:高野 公雄 師

  《13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。》
  十字架へと追い詰めるユダヤ人指導者たちの動きが激しくなったので、イエスさまはしばらく敵対者に取り囲まれたガリラヤでの宣教活動から退き、少数の弟子たちだけを連れて北方の異教の地に出て、心の備えをしました。そして、いまやイスラエル最北端のフィリポ・カイサリア地方に戻ってきました。いよいよ受難の旅が最後の行程に入ろうとするとき、弟子たちに「受難のメシア」という奥義を教え始め(16章21)、《しかも、そのことをはっきりとお話しになった》(マルコ8章32)のです。
  「受難のメシア」という秘密を語り出す前に、イエスさまはまず弟子たちがご自分をどう理解しているのかを尋ねます。周囲の人たちがイエスさまを「洗礼者ヨハネだ」とか「エリヤだ」、「エレミヤだ」、「預言者の一人だ」などと言っているのを確認したのち、イエスさまは弟子たちに《それでは、あなたがたは(強調)わたしを何者だと言うのか》と尋ねます。イエスさまの問いにシモン・ペトロが代表して、《あなたはメシア、生ける神の子です》、と答えます。それは、人々のうわさとはまったく別のことです。
  「メシア」とは、「油を注がれた者」を意味する旧約聖書の言葉です。油は神の霊の象徴ですから、神の霊を注がれた人のことです。当時のユダヤ人のメシア期待によれば、神から油を注がれた「メシア」は、その力によってイスラエルを異教徒の支配から解放し、栄光の地位に上げる救済者です。「メシア」を新約聖書の言葉に翻訳したのが「キリスト」という言葉です。
  シモン・ペトロがイエスさまに「あなたはメシアです」と告白したのに対して、今度はイエスさまがシモンに向かって、《わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる》と言われました。シモンはイエスさまから召しを受けたとき「ケファ」(岩)という呼び名を与えられていました(ヨハネ1章42)。「ペトロ」は、その「岩」という意味のギリシア語「ペトラ」から作られた男性の名前です。
  ですから、直接的にはキリストの教会の土台である「この岩」とはペトロのことです。ペトロ個人は確かに、不確かな存在でした。この直後には、イエスさまからサタン呼ばわりされています。十字架の前夜には、三度にわたってイエスさまとの関わりを否定しました。しかし、イエスさまは、このペトロの挫折を見抜いた上で言っています。《シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい》(ルカ22章31−32節)。イエスさまはペトロの弱さを知っています。しかし同時に、その立ち直りを信じています。そして、このペトロに大切な務めを託しました。
  ここでも同じです。ペトロがこのときに告白した内容について、どれ程よく理解していたか分かりません。しかし、イエスさまは、ご自身と直面したときの、ペトロの告白を支えながら、それを受け入れて、《シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ》、とペトロを祝福されたのです。
  ペトロという個人の上にではなく、また信仰告白の単なる言葉の上にでもなく、イエスさまのみ前で信仰を告白するという出来事の上に、教会は築かれます。このペトロの告白の出来事を「岩」として、イエスさまは自ら、ご自身の教会を建てたのです。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」というイエスさまの問いかけは、わたしたち一人ひとりにも問われています。弱く不確かなわたしたちも、主の教会を建てる生きた石のひとつとして用いられるのです。
  ところで、20節を見ると、《それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた》と書かれています。ここで問題は、イエスさまがペトロの告白を「天からの啓示である」として肯定しているのに、なぜそのメシア性を公に伝えてはならないのか、ということです。教会の土台はイエスさまをメシアと信じる信仰です。しかし、それだけでは、どのようなメシアかが十分に言い表せていません。それが大事なのです。弟子たちはさらに理解を深める必要があるということです。イエスさまが「受難のメシア」、すなわち殺されるメシアの秘密を語り出されたとき、ペトロはそれが理解できず、《主よ、とんでもないことです。そんなことはあってはなりません》と言って、《サタン、引き下がれ》と叱責されました(16章21〜23)。主イエスさまのメシア性が、受難と死と復活に結びつくことを、弟子たちは「この時から」学ぶことになります。その次の21節にこう書かれています。《このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた》。「あなたはメシアです」と言ったペトロは、そのメシアが苦しみを受けて殺され、三日目に復活するのを見ることになります。
  主イエスさまは、わたしたちの罪のために苦しみを受け、十字架の上で罪の贖いを成し遂げたメシアです。そして、死からよみがえり永遠に生きておられ、ご自分を通して神に近づく人たちを完全に救うことができるメシアです。その信仰の上に教会は建てられているのです。弟子たちはこの救いの出来事を待たなければならなかったのです。
  この贖いのみ業のゆえに、主イエスさまはご自分の建てる教会について、《陰府の力もこれに対抗できない》、と宣言することができるのです。「陰府」とは死者の行くところ、死の力が支配するところです。陰府の国は固い閂(かんぬき)のある門で閉じられていると信じられていました。陰府の門の強さ、死の力は強大で、すべての人を死と滅びの中に飲み尽くしていきます。
  しかし、イエスさまは、「陰府の力も教会には対抗できない」、と言われます。教会には天の国の鍵がすでに与えられているから、陰府の力、死の力はもはや教会に対抗できないのです。キリストはペトロに、《わたしはあなたに天の国の鍵を授ける》、と言っています。天の国が閉ざされるのは、人間の罪のゆえです。ですから、罪人に対して天の国が開かれるのは、罪の赦しによる以外にありません。罪を赦された者に対して、天の国は開かれます。天の国の鍵とは、《罪の赦し》の力(権能)です。キリストは、自ら十字架にかかって罪の贖いを成し遂げることによって、罪の赦しの力を、天の国の鍵を教会に与えてくださったのです。
  そして、「天の国の鍵を授ける」ということは、次のように言い換えられています。《あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる》。要するに、地上の教会において行われることが、天においても、神のみ前においても有効だということが語られているのです。ヨハネ福音書には《だれの罪でも、あなたがたが赦せばその罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ赦されないまま残る》(ヨハネ20章23)という復活の主イエスさまの言葉が伝えられています。ペトロは、教会に与えられた赦しを与えるという意味の「つなぎ、かつ解く」権能(権限、資格、能力)を代表しているのです。その意味で「天の国の鍵」を与えられているのです。わたしたちが地上の教会で目にしていることは、天上において神のみ前においても決定的な意味を持つのです。
  キリストが罪の赦しを与えてくださるならば、しかも天において神のみ前において有効な罪の赦しを与えてくださるならば、もはや陰府の力、死の力はこれに対抗することができません。わたしたちが十字架にかけられたメシア、復活して今も生きておられるメシアへの信仰を土台とするキリストの教会の中に立っているなら、わたしたちは陰府の力も揺るがすことのできない「岩」の上に立っているのです。復活の命に溢れる教会にあっては、今までわたしたちを死に閉じ込めてきた「陰府の門」もこれに対抗することができないで、開門せざるをえません。もはや何ものも、《わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのです》(ローマ8章39)。ここに、誰も、どんな力も奪うことのできない確かな平安があります。


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