2017年2月26日  主の変容(顕現節最終主日)  マタイによる福音書17章1〜9
「イエスの姿が変わる」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。》
  フィリポ・カイサリア地方におけるペトロの信仰告白のあと、イエスさまは、弟子たちに「苦しみを受ける人の子」の奥義を語り出されました(16章21)。それは、いよいよ神から与えられた使命を果たすためにエルサレムに向かう時が近づいたことを悟って、エルサレムでそのことが起こった時に備えて、弟子たちを整えるためでした。
  それから六日ほどたったとき、イエスさまは最後の旅路を歩み出すにあたって、祈るために(ルカ9章28)山に登られました。イエスさまはペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人を連れて行かれます。この三人はゲツセマネの祈りのときと同じです。ここの山での祈りとゲツセマネの園での祈りは、受難の旅の始めと終わりに位置して、対応しています。イエスさまは、この祈りの場で与えられる秘義の啓示について、この三人を証人として側におらせようとされたのでしょう。このことは、これから山で起こる出来事が、先に語り出された「苦しみを受ける人の子」の奥義と深く関わるものであることを示しています。

  《2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。》
  イエスさまが祈りの中で父と深く交わり、話し合っているうちに、その姿が変わり、衣が真っ白に輝きました。「白い衣」はイエスさまが天上の世界に属する方であることを、その顔の輝きは「人の子」の栄光を表わします。この「姿が変わったこと」=「変容」は、人間としての姿の背後に隠されていたイエスさまの神の子としての本質がいま一瞬ではあっても地上の人間である三人の弟子たちの前に輝き出た出来事でした。

  《3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4 ペトロが口をはさんでイエスさまに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」》
  エリヤは終わりの日が来る直前に再来すると期待されていた預言者です(マラキ3章23)。そのエリヤが現われたことは、イエスさまが終末をもたらすメシアであることを表わします。そのことは、山を下りるときのイエスさまと弟子たちの対話(9節以下)にも示されています。《エリヤが来て、すべてを元どおりにする》(11節)というのは、モーセによってホレブ山(=シナイ山)で結ばれたシナイ契約のことを指しているので(マラキ3章22)、モーセが一緒に現われたのでしょう。
  モーセとエリヤの二人がイエスさまと語り合っていたのは、《イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後(エクソドス)について》(ルカ9章31)でした。このギリシア語「エクソドス」は「出ていく」という意味です。ヘブライ11章22ではイスラエルの出エジプトの出来事を指し、出エジプト記の書名としても用いられています。いまイエスさまがエルサレムで成し遂げようとしている「エクソドス」とは、十字架上の死と復活とによってイエスさまがこの世から出ていかれる出来事を指しています。モーセとエリヤは、「律法と預言」を代表して、つまり全聖書を代表して、イエスさまの十字架と復活が神の終末的救いのみ業であることを証ししているのです。
  このような天上の人物三人の出現に、地上の三人の弟子たちは驚きおびえてしまいます。そして、動転した《ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からな》(ルカ9章33)いままに、場違いで見当違いな発言をしてしまいました。《ここに仮小屋を三つ建てましょう》と提案したのです。
  ペトロが「仮小屋」に言及したことから、この山上の出来事は、仮庵祭の季節であったと見られています。仮庵祭は、ユダヤ教の三大巡礼祭の一つで、秋の収穫を祝う祭りであると同時に、ユダヤ人は一週間木の枝で作った仮小屋で暮らして、荒れ野を旅した出エジプトを記念しました。同時に、この時代のユダヤ人にはメシア到来への願いとイスラエル復興の国民的希望が熱く燃え上がる祭りでもありました。

  《5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。》
  光り輝く雲によって、この場に神がご臨在しておられることが示され、同時に、雲に覆われて弟子たちはもはや何も見えなくなり、神の言葉だけを聞く場に置かれていることが示されます。
  弟子たちが雲の中から聞いた声、「これはわたしの愛する子」の「この」が、イエスさまを指していることは明らかです。この声を聞いたとき、「イエスのほかにはだれもいなかった」のですから。この「これはわたしの愛する子、これに聞け」との声は、イエスさまがヨルダン川で洗礼を受けられたとき、聖霊によって聞かれた声と内容は同じです。そのときはイエスさまに向かって「あなたは…」と二人称で語られましたが、ここでは弟子たちに向かって、イエスさまが神の子であるという啓示が三人称で語られます。
  そしてここでは、「あなたがたは彼に聞け」という世界に対する神の呼びかけが続きます。このイエスさまに聞き従うことが、神に聞き従うことなのです。これは新約聖書全体の核心であり、きょうの福音も世界に向かってこの一言を伝えたいのです。この啓示と呼びかけは、今はまだ三人の弟子たちの中に秘められていますが、イエスさまによる神のみ業の完成の後には、すなわちイエスさまの復活の後には、全世界に宣べ伝えられねばならない福音の中心的使信です。
  この変容はイエスさまの「人の子」としての栄光を一瞬垣間見させ、イエスさまが神の本質を宿し、神を啓示する方であることを保証する出来事でした。しかし、そのような栄光を直接見なくても、イエスさまをそのような方として聞き従うことが「イエスさまを信じる」ことです。このとき、この神の宣言を聞いたのは、ペトロたち三人だけでしたが、この神の宣言は、やがて彼らを通して世界に響くことになります。
  雲の中からの声に恐れてひれ伏す弟子たちに、イエスさまが近づき、彼らに手を触れて、《起きなさい。恐れることはない》と言われました。これこそが、イエスさまが栄光の姿を弟子たちに見せた目的です。イエスさまは、み言葉を聞いて信じる私たちにも近づき、手を触れて、「起きなさい。恐れることはない」と言って励ましてくださるのです。

  《9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。》
  イエスさまはこれまでにもしばしば、イエスさまの隠された栄光を見た者に、それを人に語らないで秘密にしておくように命じられました。ここで初めてその動機を示唆する表現が出てきます。イエスさまは「人の子が死者の中から復活するまで」、だれにも話さないように求められます。それは、イエスさまが死者の中から復活されて初めて、キリストとしての本来の栄光が顕現するのだからです。イエスさまの復活以前の栄光についての人間の体験や理解はすべて、それだけが復活との関連なしで単独に宣べ伝えられるときは、キリストとしての本質が誤解されて、当時のメシア待望の熱気を扇ぐことになるし、イエスさまのみ業の妨げになるからです。しかし、この顕現の物語が、イエスさま復活後には大いに用いられることになったことは、きょうの第二朗読、Uペトロ1章16〜18で聞いたとおりです。
  山上での変容は、山を下りるときの対話が示唆しているように、「人の子」としてのイエスさまの栄光の啓示でした。すでに明白な言葉で語り出された「地上で苦しみを受ける人の子」が、じつに終末的な神の支配をもたらす天上の栄光の主であるという秘密が、特別に選ばれた三人の弟子たちに神から直接に啓示される出来事でした。その秘密は、やがてイエスさまの復活の宣教によって世界に公示されるようになります。「変容」によって、イエスさまはその苦しみを受ける卑しい姿の中に神の子としての栄光を宿す方であることが、弟子団の中核部を形成する三人に啓示された、この体験が、イエスさまの十字架上の刑死という状況で、弟子団が最終的な崩壊に至らなかった根拠となったのです。み言葉を聞くために集う私たちも、十字架への道を歩むキリストに従う決意を新たにすることができますように。


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