2017年9月24日  聖霊降臨後第16主日  マタイによる福音書18章1〜14
「天の国でいちばん偉い者」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」》
  イエスさまと弟子たちは、フィリポ・カイサリヤからエルサレムに向かう最後の旅の途中、ガリラヤでの宣教活動の拠点であったカファルナウムに立ち寄ります。そして、《そのとき》、すなわち家に着いて、群衆から離れて弟子たちだけのとき、イエスさまは弟子たちが途中、「(自分たちの内で)だれがいちばん偉いか」と議論していたことを取り上げて、心得違いを諭されます(マルコ9章33〜37)。マタイ18章には、この教えを手始めに、弟子たる者の心構え、教会のあり方を説くイエスさまの語録がまとめられています。
  イエスさまは、一人の子供を呼び寄せ、弟子たちの中に立たせてこう言われました。《はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ》。
  ここで用いられている「子供」は無邪気さとか純粋さの象徴ではなく(当時のユダヤ人社会ではそのような意味はありませんでした)、自分では何もできない完全な依存性を象徴しています。《子供のようになる》とは、自己を根拠にして存在するのではなく、自分を無にして完全に父の恵みに身を委ねるあり方を指しています。これは「信仰」の姿に他なりません。「天の国」とは、この地上とは別のどこかにある国ということではなくて、「神の支配」ということです。神の支配とは恵みの支配のことですから、神の支配の現実に入るのは、恵みを恵みとして無条件に受け取り、恵みに全存在を委ねること、すなわち信仰以外にはありえません。そのように、恵みの場で自分を無にしている者が、天の国でいちばん偉大な者になるのです。
  そして、《わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである》という語録でこの段落を締め括ります。ここでの「子供」は、存在する価値もないとして社会で無視されている「小さい者」のことであり、そのような者を「受け入れる」とは、そのような者の仲間になり、自分をそのような低い場に置くことです。そのように「小さい者」を受け入れる者は、じつにイエスさまを自分の中に迎え入れていることになる、というのです。イエスさまは《わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことなのである》(25章40)と言っています。イエスさまはこのような「小さい者」とご自分を一つにしています。このようにイエスさまは、弟子たちの「教会」の基本的なあり方として、自らを低くすることを求めます。「低くする」とは自分が偉くない、大きくない、小さい者であるということを知ることです。

  《6 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。7 世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。8 もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。9 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」》
  5節で「子供」、すなわち「小さい者」を受け入れる者こそ、イエスさまの望むところを行っているのだと述べた後、それと対照して、6節で《しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである》と、小さな者をつまずかせる罪の大きさが取り上げられます。
  この段落からは、子供(年齢的に小さい者)を巡る議論から、小さな者(信仰的に未熟な者)を巡る議論へと展開していきます。イエスさまは弟子たちのことも「小さな者」(10章42)と呼びました。イエスさまの言う「小さな者」とは、実際の大人、大きな者であって、神の前では小さな者であるということです。
  「つまずく」とは、イエスさまを信じる信仰から逸れていってしまうことです。「つまずき」という言葉の原文は「スキャンダル」という英語の語源で、元々は「罠」という意味です。鳥や獣が一度それにかかると、確実に捕えられ殺されてしまう「罠」のことです。ここでは、つまずいた人が再び立ち直るという、悠長な話ではないのです。
  この「つまずかせる」ことの重大さを印象づけるために、《世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である》という結びの文を間に置いて、「つまずき」に関する別の語録を続けます。《もし片手または片足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。・・・もしあなたの片目があなたをつかずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい》。この語録は「あなたをつまずかせる」という表現が示しているように、「小さな者をつまずかせる」こととは別の問題で、信仰者一人ひとりの自分の問題です。イエスさまは非常に激しい表現で、信仰を失い、神との命の交わりから脱落し、「火の地獄に投げ込まれる」ことの恐ろしさを語っていますが、それは「神の国に入る」ことの真剣さの裏返しの表現です。   神は小さく、弱く、それでもなお大きく見せようとするわたしたちを受け入れてくださった。そのような神への信頼、信仰から、一人の小さな者を受け入れるということが可能となります。そこにこそ教会のまことの交わりが表されているのです。教会はこの世における、イエス・キリストの体です。私たちはその手足です。この世において、教会が教会となるために、全身を危険に導く致命的なつまずきは切り落とさなければならないこともあるかもしれません。わたしたちは信仰につまずき、自分自身につまずきますけれども、イエス・キリストは、私たちを救うために、ご自身の体を十字架へと捧げてくださったのです。

  《10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」》
  「小さい者を受け入れなさい」(1〜5節)と「小さい者をつまずかせるな」(6〜9節)という教えに、「小さい者を軽んじるな」という教えが続きます(10〜14節)。そして、《小さい者を一人でも軽んじないように気をつけなさい》という教えには、その理由が二つ上げられます。一つは、《彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいる》からです。もう一つは、「迷い出た羊」(12〜13節)のたとえが語るように、《これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない》からです。
  当時のユダヤ教には、義人には守護天使がついているという思想がありました。イエスさまはこのユダヤ教における天使の思想を用いて、「小さい者」の一人ひとりが神の前にいかに重要な存在であるかを語ります。人間の世界では軽蔑され、見過ごされ、存在する価値もないかのように扱われている「小さい者」たちの一人ひとりに天使がついていて、直接「わたしの天の父の御顔を仰いで」、その「小さい者」のことを父に執り成しています。「わたしの天の父」は小さい者の一人ひとりに深い関心を寄せて見守っておられるのです。そのような、神の大切な者をわたしたちが軽んじ、受け入れないということがあってはなりません。
  そのことをイエスさまは次に続く「迷い出た羊」のたとえの中で印象深く語っていきます。マタイ福音書において「迷い出た羊」とは、わたしたちが軽んじてしまう、つまずかせてしまう、これらの小さな者の一人ということです。人を軽んじる思いによって、その人を傷つけ、その信仰をつまずかせることになるのです。神はわたしたちが軽んじ、つまずかせてしまうその一人の小さな者を、大切に思っておられます。そして、わたしたちの羊飼いであるイエスさまは、この失われた一匹の羊の回復、救いのために、全力を尽くされます。教会における交わりとはこのようにイエスさまと共に迷い出た一匹を捜し、見出したら共に喜ぶというイエスさまを中心とした交わりです。


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