2017年10月1日  聖霊降臨後第17主日  マタイによる福音書18章15〜20
「兄弟の忠告」
  説教者:高野 公雄 師

  《15 兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。》
  きょうの個所は、マタイ18章全体の「教会」についての教えの四つ目の区切りにあたり、二人三人への忠告としてまとめられています。まず「罪を犯した兄弟」の取り扱いについての勧告が取り上げられ(15〜17節)、その機会にそのように行動する「教会」の権威と特権が語られます(18〜20節)。
  この段落では、「兄弟」と「教会」という語が目立ちます。マタイの時代においては、信徒の集会は「教会」と呼ばれ、その成員は「兄弟」と呼ばれていました。15節の原文は「あなたの兄弟が・・・」ですが、ここでは兄弟姉妹の意味です。用語だけでなく内容から見ても、マタイがここで信徒の共同体、具体的には自分の目の前にある具体的な集会を念頭に置いて、この段落を書いていることがうかがわれます。マタイはそこで起こる問題にどのように対処すべきか、イエスさまの言葉を聞き取ろうとしているのです。
  おそらくイエスさまの語録伝承では、《もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。もし悔い改めれば、赦してやりなさい》(ルカ17章3)という形で伝えられていたと考えられますが、マタイはそれを実際の場面に適用できるように、具体的な規定にしています。その規定の仕方にはユダヤ教共同体での経験が反映しているように思われます。
  「罪を犯す」とはどういうことを指しているのかは明確には規定されていません。イスラエルにおいては、罪とはヤハウェとの契約(律法)に違反する行為であり、罪に対する処罰と赦しのための手続き(祭儀)は詳しく規定されていました。自身がユダヤ教ラビとしての体質を持ち、おもにユダヤ人信徒に語りかけるマタイは、当然十戒とかその他のユダヤ教の基本的な戒めに違反する行為を罪としていたことは推察できます。
  ところで、イエスさまをメシア・キリストと信じる者たちの新しい「教会」においては、イエス・キリストにおいて啓示された父のみ心に反する行動が罪となるわけですが、《あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ》(ルカ6章36)という原理が与えられているだけで、個々の行為についての規定はありません。それで、実際には罪の問題は、ある成員が他の成員に対してなした不法な行為という形で現れることが多いことになります。それが《あなたに対して罪を犯したら》という表現になったと考えられます。
  そのような場合、まず不法を受けた者が相手に、それが不法であり神の御旨に反することを説いて、一対一で諫めるように求められます。その説得で相手が反省して改めれば、兄弟の交わりは続くことになり、「兄弟を得た」ことになります。その場合、相手を赦すことが前提です。イエスさまの民はお互いに戒め合って、神のみ旨を行う民となるように召されているのです。
  続いてマタイは、その説得が「聞き入れられない場合」について規定します。《聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである》。これは、申命記19章15に《いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない》とある規定が反映しています。このような考え方は、旧約聖書を自分たちの聖書として継承した初期の教会に共通であったようです(ヨハネ8章17、Uコリント13章1、Tテモテ5章1、ヘブライ10章28など)。このような規定は、説得する側の兄弟が間違っている場合もあえますから、「聞き入れない兄弟」が罪を犯しているのかどうかを確定するために必要な手続きでしょう。それで聞き入れられれば、「兄弟を得た」ことになります。これは、「迷い出た羊」のたとえを反映して、相手への配慮がこめられた表現です。
  さらに、《それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい》となります。このような場合、ユダヤ教であれば会堂の長老会議にかけるとか、重罪の場合は最高法院に訴えるということになりますが、イエス・キリストの民の場合は、このような罪を裁く会議とか法廷はありません。個々の集会自体が成員の罪の問題を処理しなければなりません。「教会に申し出る」とは、何らかの形で行われる集会の全体会議のようなものにかけて問題を討議し、その成員の扱いを決めることを指していると考えられます。パウロも集会が成員間の紛争を裁くことについて語っています(Tコリント6章1〜7)。
  教会に申し出て、その結果《教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい》となります。しかしこのように「罪人や徴税人」を貶(おとし)める態度は、イエスさまの彼らに対するこれまでの姿勢とは似合いません(マタイ8章10〜11、9章10など)。「異邦人と徴税人」は道義的に低いレベルの人たちを指す慣用句として用いられていたのかもしれません。ユダヤ人から見れば異邦人は異教徒のことであり、徴税人は神の民イスラエルに入ることができない種類の人間です。「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」というのは、もはや仲間の兄弟とはせず、「教会」から追放することです。後のキリスト教会では「破門」と言われた扱いです。

  《18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。》
  罪を犯した兄弟に対処することを取り上げた機会に、赦して受け入れたり、赦さずに追放したりする権能が「教会」にあること(18節)、および集会の心を合わせた祈りは必ず聴かれること(19節)が保証され、その根拠として集会の中にはイエスさまご自身がおられることが上げられます(20節)。
  《あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる》という文に用いられている「つなぐ」と「解く」という語は、ユダヤ教律法の教師であるラビの用語では、律法順守のためにある内容の義務を課したり免除することを指します。しかし、ここでは直前の罪を犯した兄弟に対する処置を根拠づけているのですから、罪の責任に「つなぐ」とか、その責任から「解く」という意味になります。
  こう理解することは、《だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る》(ヨハネ20章23)に伝えられている)という言葉とも一致します。初期の教団は、復活の主から聖霊によってこのような権能を与えられていると理解していました。それがユダヤ人の宣教圏で「つなぎ、かつ解く」というラビ的な用語で表現されたのです。信徒の集団が地上で罪ありとしたことは、天上でも罪ありとされ、赦して罪なしとしたことは、神も赦して受け入れてくださるというのです。
  この「つなぎ解く」権能がペトロに与えられたことは、先に16章19に記されていたましたが、この個所はこの委託がペトろ個人に限られてはいないことを証するものです。
  地上でイエスさまを信じる者の共同体が一致して決めたことは、天上で神もその決定を受け入れてくださるという地と天の対応が、祈りにおける願い事についても語られます。すなわち、《どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる》というのです。ここでは信じる者の共同体が「あなたがたのうち二人」と、これ以上小さくできない極限にまで進められています。どんな小さい群れでも、イエスさまを信じる者が地上で心を合わせて祈り求めるならば、天にいますイエスさまの父が与えてくださるのです。
  それは、《二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる》からです。ユダヤ教では10人以上の男性がいなければ「礼拝のための集会」とは認められませんでしたが、イエスさまはそれよりもずっと小さな人数の交わりの意義を認めています。イエスさまの名によって集まる共同体が、どんなに小さいものであっても、地上でこのような地位にあるのは、その中にイエスさまご自身がおられるからです。大事なのは、このようなイエスさまの臨在が組織された公式の教会だけでなく、二人三人の小さな集いにも約束されていることです。父と一つである復活の主イエスさまがその中にいてくださる共同体であるから、「つなぎ解く」権能があり、祈り求めるものが与えられるという確信をもつことができるのです。この「わたしもその中にいる」という言葉は、マタイ福音書全体を貫く教えです。


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