2017年10月8日  聖霊降臨後第18主日  マタイによる福音書18章21〜35
「仲間を赦さない家来のたとえ」
  説教者:高野 公雄 師

  《21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。》
  わたしたちは、マタイ18章に沿って「いちばん偉い者」、「罪への誘惑」、「迷い出た羊」、「兄弟への忠告」と読み進んで、信徒の生き方、教会のあり方を学んできました。きょうの個所は18章の結びの部分です。前の段落は《兄弟があなたに対して罪を犯したなら》とイエスさまの教えで始まりましたが、きょうの個所は《兄弟がわたしに対して罪を犯したなら》とペトロの質問で始まります。今回も、兄弟姉妹間のトラブルがテーマです。
  よくあることと思いますが、例えば、誰かに酷いことを言われて傷つけられたとき、相手に酷いことを言い返して直接的にやり返すか、または「あの人は酷い人だ」と触れ回ることによって間接的に相手を傷つけてやり返します。わたしたちは、報復によって帳尻を合わせようとします。
  しかし、イエスさまは報復を放棄して、《だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。・・・敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい》(マタイ5章38〜48)と、むしろ愛を示すことを求められました。確かに、報復は相手の人間をも、敵対している事態をも変え得ないことは事実です。人間を変え事態を変えるのは、報復ではなくて愛することです。赦しの慈悲には、人の心を変えて悔い改めに導く力、人を神に心から従わせる働きがあります。イエスさまが言う「七の七十倍」は回数の問題ではなくて、神の広大無辺の赦しの慈愛を語っているのです。
  ペトロも先のイエスさまの言葉は聞いていますし、そのとおりに生きたいと思っていたのでしょう。だからこそ、《主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか》、と尋ねたのです。ペトロは報復を放棄して、愛するつもりでいるのです。しかも七回までも赦そうと言っています。ところがイエスさまの口からは驚くべき言葉が返ってきたのでした。《あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい》。七回の七十倍は四九〇回ですが、実際にはそんなに数えていられません。数えないで赦しなさい、無限に赦しなさい、ということでしょう。イエスさまの言葉はあまりにも極端に思えます。しかし、そこでイエスさま一つのたとえ話をされました。

  《23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」》
  一万タラントンとは、一人の労働者に対する六千万日分(約二十万年分)の給料に相当します。どう考えても、そんな多額の借金ができるはずはありません。しかし、その極端さの中にこそ、イエスさまの言葉ならではの強烈なメッセージが込められているのです。
  イエスさまが言おうとしていることは、第一に、わたしたちの罪は、わたしたちの想像を絶するほどに大きい」ということです。このたとえにおいて、「王」とは神のことです。借金している家来はわたしたちたち人間です。借金とは、わたしたちが神の御心に背いて犯してきた諸々の罪です。そして、その罪の借金は想像できないほど莫大な額にのぼるのだ、と語られているのです。まさに想像も及ばないから、自分より少々悪そうな人間を平気で見下したりするのです。平気な顔をして断罪していられるのです。
  そして、第二に、ここに語られているのは、「神は正しく裁かれる御方だ」ということです。王は全額の返済を要求しました。この家来に対して、《自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように》と命じました。ヘレニズム時代には、負債が返済できない場合に、本人も妻子も奴隷として売り払われるのは珍しいことではなく、ことさらに残酷な要求をしているのではありません。過分な要求をしてもいません。実際、自分も妻も子も持ち物も、全部を売り払ったとしても、一万タラントンには遠く及ばないのです。果たして神からすべて返済することを要求されたら、わたしたちはいったいどうなるのでしょうか。
  しかし、イエスさまが本当に語りたいのは、もう一つの別のことです。「神の憐れみは私たちの想像を絶するほどに大きい」ということです。イエスさまのたとえ話は、まさかの急展開を迎えて、《その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった》のです。一万タラントンの借金の帳消し、それが神の赦しだ、神の憐れみだ、とイエスさまは言うのです。わたしたちの罪は想像が及ばないほどに大きいとしても、神の憐れみはそれよりもはるかに大きいのです。このたとえ話に登場する家来は、突然、そのとてつもない王の憐れみの中に置かれることになったのです。ただ一方的な恵みによって一万タラントンを与えられたに等しいのです。
  彼はこれまで、負債の重圧の中に、そして悲しみと恐れの中に生きてきたことでしょう。しかし、いまや彼は処罰の恐れから解放されて、主君の憐れみの中を生きていくことができるのです。それがあなたたちだ、とイエスさまはペトロに、そしてわたしたちに言っているのです。「あなたたちは、この上なく憐れみ深い王の家来だ。あなたたちは想像を絶する憐れみの中に生きているのだ」と。
  そして、この家来は外に出て行きます。王は当然のこととして、この家来が、「憐れみ深い王の家来」として生きることを期待しているわけでしょう。そして、「憐れみ深い王の家来」として行動する機会はいくらでもあります。とくに、自分に罪を犯した人に出会うとき、自分を傷つけた人に出会うときなどは、まさにそのチャンスです。
  この家来にも、そのときがすぐに訪れました。《自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと》とあります。憐れみによって与えられた機会です。もし一万タラントンの負債を帳消しにされていなかったら、外でこの仲間に出会うこともなかったのですから、まさに憐れみを示すチャンスなのです。
  しかし、この家来はこの仲間を《捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っ張って行き、借金を返すまでと牢に入れた》。彼はせっかくの機会を棒に振ってしまいました。そのことが王の耳に入ります。《主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した》。牢役人の原語は「拷問係(フランシスコ会訳)」です。
  一万タラントンを返せなかったときでさえ、王は憐れに思って赦したのです。しかし、ここでは王は怒りました。この王の怒りは、王の期待の裏返しです。どれだけ期待していたかということです。《わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか》とあります。これこそが王の望んでいた唯一のことだったのです。王が望んでいたのは、一生かかってでも償いをするという類のことではなくて、憐れみを受けた者として憐れみをもって生きることだったのです。主君の言葉は、《人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい》(マタイ7章12)という黄金律を想い出させます。
  神は、イエスさまの十字架の血の贖いを通じて、わたしたちの背負いきれないほどの途方もない大きな罪を赦してくださった。しかも、しかも、そのような神の赦し、神の慈愛がすでに今働いていること、わたしたちは神のこの大慈悲によって生かされていることを今回の譬えは教えてくれます。
  十字架にかかられてわたしたちの罪の贖いの犠牲となってくださったイエスさまに出会って初めて、憐れみとは何か、慈悲とは何かを悟るのです。自分の重荷、自分の罪性の霊的な暗さに気がついて、イエスさまの赦しに与る。こういう体験をした者が初めて今回の譬えの真意が理解できるのです。ペトロは、そしてわたしたちは、憐れみ深い王の家来として、すべての出会いを王の憐れみ深さを表す機会として生かすのです。


inserted by FC2 system