2017年10月15日  聖霊降臨後第19主日  マタイによる福音書20章1〜16
「ぶどう園の労働者のたとえ」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。》
  パレスチナ地方には、ぶどう畑が多く、収穫期になると、猫の手も借りたいほどになります。朝早くから、労働者を探しにかけずりまわる農園主、それは、秋の収穫期にはどこにでも見られる光景だったそうです。また、町に暮らす貧しい人々は職を探し求めても得られない状況にあって、毎朝、日雇いの仕事を求めて町の中心にある広場に集まり、雇い主の声がかかるのを待っていました。人が仕事に出掛けるのは、太陽が昇る朝の六時頃であり、夕べになるのは、午後の六時頃ですから、朝の七時頃から夕方の六時頃まで人々は働いていたことになります。そのために、この「主人」は「夜明けに」、朝早く五時か六時頃には家を出て、広場に出かけます。そして、主人はそこに集まっている人々に呼びかけ、《一日につき一デナリオン》の約束で、労働者をぶどう園に送りました。これが、当時の賃金の相場でした。一日働いて一デナリオンもらう。それで普通の生活が営めるのです。
  ふつうは夜明け頃に雇い入れたら、それでその日の求人は終わりです。ところが、この主人は、《また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った》、とあります。さらにこの主人は十二時頃と三時頃、一日の仕事が終わるわずか一時間前の五時頃にも、広場を訪ねましたが、その時間になっても未だ働き場所を見つけることができないで、広場にたむろしている人々がいました。この人々は働きたいのです。しかし、雇ってくれる人がいないのです。《なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか》とあるのは、主人が彼らを咎めているのではありません。主人は、《あなたたちもぶどう園に行きなさい》と言って、このような人々にも仕事を与えるのです。「役に立たない人間」など、この世にいないのです。

  《8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」》
  そして労働の時間が終わって、きょう働いた人々が皆、集まって来ました。旧約に《雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない》(レビ19章13)とあります。賃金の支払いを遅らせて、労働した人が食べて行けないなどということのないようにということです。主人はその規定どおりに、夕方に賃金の支払いを労働者の監督に命じます。しかし、賃金の支払い方も、その額も、人々を驚かせました。「最後に来た者」から逆順に賃金を支払いました。
  さらに人々がもっと驚いたことは、賃金の額です。最後に来て1時間ばかりしか働かなかった者に1デナリオンの賃金が支払われました。最初から働いた人々は、それを見て、それなら自分たちはもっとたくさんもらえるだろうと期待しました。しかし、もらったのはやはり1デナリオンでした。彼らは期待を裏切られて文句を言います。《最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは》。この不満は当然です。労働時間の違いも、労働の厳しさの差も考慮されていないからです。この労働者たちの不満は、放蕩息子の兄が父に向けた不満と似ています(ルカ15章29〜30)。また、先にペトロが《わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか》(19章27)、と報酬を求めたことに通じるところがあります。
  主人はそれに対してこう答えます。《友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ》。確かに、この主人は少しも契約違反をしていません。でも、他人が厚遇されるのを見れば、自分が不当に扱われていると思って不満が生じます。しかし逆に、他人が不遇であっても、自分に良い扱いがなされているのを見ても、不満は抱かないものです。このようにして、わたしたちの心の底に潜んでいる利己心が現わされます。主人は人間の心の底にあるものを見抜き、不平不満を言う人々に対して、《自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか》、と問い返します。支払いの仕方は主人の「自由」だというのです。主人は神です。ここに神の憐れみの自由が示されています。それが、《わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ》、という言葉です。一デナリオンの金銭がなければ、誰も生きていくことができないのです。

  以上がこのたとえ話のあらすじです。いったいイエスさまはこの話で何を教えようとしているのか、あらためて考えてみましょう。神のぶどう園に雇われて働く者となること、それがわたしたちの信仰です。雇われて働くのは、賃金という報酬を得るためです。一日につき一デナリオンという雇用契約を結んで働く、それが約束されているから、希望をもって、汗水たらして働くのです。神を信じて生きる、その報いは、もちろんお金ではありません。一日の生活を支えるに足りる一デナリオン、それは神の救いであり、永遠の命です。
  ただし、最後に雇われた人にしてみれば、神からの報いは、ほとんどただで貰ったようなものです。神からの報いとは、人間の働き、善い行いに対する報酬、見返りとして得られるものではなくて、ただ神の恵みと憐れみのみ心によって与えられるものです。そのことを示すために、神は、《後にいる者が先になり、先にいる者が後になる》ようにするのです。このたとえ話で、賃金が支払われる時に、最後に雇われた者に対して最初に、最初に雇われた者に対して最後に支払うように命じたというのは、それによって、この一デナリオンが労働の対価としての報酬とは違うものだ、ということを表しているのです。
  この主人が、つまり神が、夜明けにだけでなく、九時にも、十二時にも、三時にも、そして五時になってもなお、人々を雇い入れているのは、仕事にあぶれ、その日の賃金を得ることができない人々に、生きていくのに必要な一デナリオンを与えてやりたいという恵みのみ心からです。働きがなくても、清さ正しさにおいて十分でなくても、そういう人にも、救いを、永遠の命を与えてやりたいという憐れみのみ心から、この主人、つまり神は何度も何度も人々のところへ行き、招いておられるのです。そのみ心は、不平を言った人々への主人の答えの中にはっきりと語られています。
  神がこのぶどう園をやっているのは、ご自分が利益をあげるためではなくて、わたしたちに一デナリオンの救いを与えてくださるためです。どんな人でも、いつからでも、働くことを許されるのがこのぶどう園です。このぶどう園で働くことは、決して楽なことではありません。「わたしたちは《まる一日、暑い中を辛抱して働いた》のだ」と不平を言っている人がいるように、やはり苦しいこと、つらいこともあります。辛抱しなければならないこと、忍耐を求められることがあります。後の者が先になり、先の者が後になることが起って、「なんだ、割が合わない」と思うような目にも会います。それにもかかわらず、このぶどう園で働くことは大きな喜びです。なぜなら、このたとえ話に語られている、このような主人のもとに生きることができるからです。わたしたちの働きや善い行いへの報いとしてではなく、ただ自由な恵みのみ心によってわたしたちに救いを与えてくださる神、そのために独り子を十字架につけることさえしてくださった神のもとで、その神に仕えて生きることほど、有意義な、支えられた、希望のある人生はありません。神のぶどう園で喜んで働いて、その幸いがわたしたちのものとなりますように。


inserted by FC2 system