2017年3月12日  四旬節第二主日  マタイによる福音書20章17〜28
「エルサレムを前にして」
  説教者:高野 公雄 師

  《17 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。18 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、19 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」》
  ガリラヤを去り、ヨルダン川の東側で教えられたのち、イエスさまはいよいよ最後の目的地であるエルサレムへ上って行かれます。その旅の途上で、イエスさまは十二人の弟子たちだけをそばに呼び寄せ、三度目の受難予告をされます。この三度目の受難予告は、一度目(16章21)と二度目(17章22)に較べると、受難の過程が具体的に詳しく語られています。
  これらの言葉は、イエスさまが将来の出来事を予告しているだけでなく、福音書の核心を示す最も重要な言葉として繰り返されているのです。もともと福音とは復活された方を宣べ伝えるものですが、そのさい、人の子であり、復活された栄光の主である方が、地上でまず苦しみを受けなければならなかったという点に、福音の本質を見ているのです。そのことをこの三回にわたる受難予告の言葉は宣べ伝えているのです。
  それで、この三回の受難予告の言葉にはそれぞれ、このイエスさまに従おうとする弟子たちへの訓戒が続いています。第一回目の受難予告の後には「自分を捨てて従え」という訓戒が(18章24〜25)、第二回目の受難予告の後には「自分を低くして子供のようになれ」という訓戒(18章1〜5)が続きました。そしてこの第三回目の受難予告の後には、「すべての人の僕となれ」という次の段落(20章26〜27)が続きます。これらの訓戒は、弟子たちに、イエスさまの受難にあずかることによって、「十字架の福音」を身をもって体得しなさいと呼びかけています。

  《20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。21 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、23 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」》
  エルサレムを目指して旅を続けている、そのとき、ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネの母親がイエスさまに、《王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れる》ように頼みます。イエスさま一行の最後のエルサレムへの旅には、ガリラヤから女性たちもつき従っていました。その中にゼベダイの子らの母親もいたのです(27章55〜56)。しかし、ここで二人も母親と一緒に頼んでいたのであって、以下の対話はイエスさまと二人の弟子たちとの間の対話になっています。
  王座の左右に席が与えられることは、最高の栄誉を意味します。イエスさまは二人に、《あなたがたは自分が何を願っているのか、分かっていない》と答えます。エルサレムに向かう同じ道を行きながら、イエスさまと弟子たちとはまったく別の道を歩んでいることが露呈します。イエスさまは《多くの人の身代金として自分の命を献げるために》エルサレムに向かっておられるのに、弟子たちは人の上に立って支配する者になりたいと願っているのです。イエスさまはイザヤ書53章の「主のしもべ」の道を歩んでおられるのに、弟子たちは王として世界を支配するメシアを期待し、王の高官としての栄光にあずかることを願っているのです。ペトロもそのようなメシアを期待して、《サタン、引き下がれ》(16章23)と叱責されて以来、途中弟子たちは互いにメシアの王国では誰が一番偉いかと議論し、最後までこのようなメシア期待を持っていたことを示しています(マルコ9章33〜37参照)。
  イエスさまは二人の思い違いを正すために、《このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか》と言われます。それに対して二人は、《できます》と答えます。「杯」は、神から突きつけられる裁きの苦しみを象徴しています。それを飲み干すことは、イエスさまでさえ、ゲツセマネで三度まで、《父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください》(26章39)と祈らないではおれないほど苦しいものです。彼らが「できます」と言った決意がいかにもろいものであるかは、このすぐあとにイエスさまの裁判が行われているとき、ペトロが三度までイエスさまを知らないと誓ったこと(マタイ26章69〜75)、またイエスさまが十字架につけられたとき、弟子たち全員がガリラヤへ逃走したことからも明らかです。
  しかしイエスさまは《確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる》と告げます。彼らの弱さを見通しながらも、イエスさまは彼らもやがてはイエスさまに従う者として、世からイエスさまと同じ扱いを受けて苦しむことを予告されます。事実、43年にはゼベダイの子ヤコブがヘロデ・アグリッパ王によって処刑されています(使徒12章2)。62年には主の兄弟ヤコブが他の有力なユダヤ人信徒と共に律法違反の咎で裁かれ、大祭司アンナス二世によって処刑されています。ゼベダイの子ヨハネについては、この頃までに殺されていたという伝承とともに、長寿をまっとうしたという伝承もあります。
  迫害が来ることはすでに何回も触れて、弟子たる者の覚悟を促しておられました。しかしここで、たとえイエスさまの名による苦難を受けても、それが栄光の座に座るための資格になるものではないことが示されます。また、イエスさまさえもそれを決める立場ではなく、どのような栄光を与えられるかは、神だけが決められること諭されます。

  《24 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」》
  「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立て」ます。腹を立てたことで、ほかの十人も同じ願いを持っていたことを暴露しています。「そこで、イエスは一同を呼び寄せて」言われます。
  イエスさまは、この世の支配と神の支配という二つの場の原理の違いを明確に語り出されます。ここの「異邦人」というのは「ユダヤ人でない者」ではなく、「諸国民」という意味であり、世界の現実を語っています。この世界では、強い者、力を持つ者が支配し、その力で弱い者を服従させています。それに対して、神の支配にあずかるイエスさまの弟子の中ではそうであってはならず、強い者は弱い者にその能力をもって仕えるのです。それは、神の支配とは恵みの支配であり、愛の支配であるからです。
  そして、次に、そのような愛の支配を成立させる根底が語り出されます。それはイエスさまご自身が愛の支配の体現者であるからです。《人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように》とありますが、イエスさまはたんに謙遜な心で仕えるという道徳的な模範であるのではなく、このような愛の支配を成立させる根底であると理解しなければなりません。
  イエスさまは《多くの人の身代金として自分の命を献げる》道を歩み抜かれました。これはイザヤ書53章に預言されていた「主のしもべ」の道です。復活者キリスト、神の子であるイエスさまが、地上では「多くの人の身代金として自分の命を献げる」あの十字架の死を遂げられたことによって、神の恵みの支配、愛の支配が実現しました。この恵みの支配の場において、はじめて力の支配とは逆の原理の共同体が成立するのです。
  「人の子」とは本来栄光の称号です。その「人の子」がこの世に来たのは、栄光の座から人々を支配し、人々に仕えられるためではなく、自分の命をすべての人の身代金として与えるという、もっとも徹底した形で人々に仕えるためでした。この「人の子」の姿は、弟子たちを含めて当時のユダヤ人たちがメシアや人の子を偉大な支配者と考えていたのとまったく反対の姿です。四旬節はこの姿を思い起こす時です。私たちはそのようなお方を「あなたはメシアです」と告白しているのです。このお方に自分のすべてを委ねることによって、私たちの仕える生き方が生まれるのです。


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