2017年10月22日  聖霊降臨後第20主日  マタイによる福音書21章33〜46
「ぶどう園と農夫のたとえ」
  説教者:高野 公雄 師

  《33 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。34 さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。35 だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。36 また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。37 そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。38 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』39 そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。40 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」41 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」》
  きょうの聖書は、エルサレムにおけるイエスさまの生涯最後の一週間に、ユダヤ教を代表する者たちに対して語ったたとえ話です。彼らがイエスさまに対して抱いている殺意が何を意味するかを示すたとえ話です。
  イスラエルの生活では、ぶどう園は身近なものでした。当時のぶどう園は、ぶどうの実を出荷するのではなく、採れたぶどうからぶどう酒を造って売っていたのです。「垣を巡らし」とは、いばらの茂みのことで、それによってぶどう園を荒らす動物やぶどうを盗みに入る者を防ぎます。「搾り場」とは、ぶどう酒を作るための施設です。「見張りのやぐら」は、ぶどう畑を荒らす獣や泥棒を見張るためのものです。主人は、これらの設備をすべて整えた上で、それを農夫たちに貸して旅に出ました。「旅に出る」とは、当時の地主は自分の土地を人に貸して、自分は都会で暮らしたということです。そこから僕を送り出して地代を集めました。
  このぶどう園を作った主人は神を意味しています。きょうの第一日課、イザヤ書5章で、神の民イスラエルがぶどう園にたとえられていたように、ぶどう園は神の民イスラエルのことであり、ぶどう園で働いている農夫たちは、そのイスラエルの民の指導者たちのことです。
  《さて、収穫の時が近づいたとき》とありますが、これは単にその季節になったということではありません。新しく作られたぶどう園は、実際に収穫ができて、ぶどう酒を造って、利益をあげられるようになるまでには何年かが必要ですが、その何年かが過ぎて、いよいよ実際にこのぶどう園から収穫、利益が見込まれるようになったときに、ということです。つまり主人は、この農夫たちに十分な時間を与えているのです。彼らがきちんと仕事をしてさえいれば、収穫があがり、彼らの生活がこのぶどう園によって支えられ、所有者である主人にその取り分を支払うことができる、そういう時になって、主人は自分の取り分を受け取るために僕を遣わしたのです。ところが、農夫たちは僕の一人は袋だたきにし、後の二人を殺してしまいました。そこで、主人は最後に《わたしの息子なら敬ってくれるだろう》と言って、主人は自分の息子を送りました。けれども農夫たちは、その息子を見て、《これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしょう》と話し合いました。《そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外に放り出して、殺してしまった》のです。
  当時のパレスチナでは不在地主に対して、小作料不払いの動きが頻発していました。また、当時の法律制度では所有者のない土地は最初に占有した者の財産になったので、農夫たちが(父親が亡くなったので息子が相続するために来たと思って)跡取りの独り息子を殺せば、そのぶどう園は所有者のない土地になってしまうから自分たちのものになると考えることは、当時の社会に実際に起こりえたのです。
  イエスさまは《さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか》と問いかけます。イスラエルの指導者たちは、こう答えます。《その悪人どもをひどい目に遭わせ殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない》。もっともな答えだと思います。彼らの答えは、主人の愛する息子まで殺してしまっては、もはや関係を回復する道は閉ざされ、彼らの滅びは必然であるという審判の預言となっています。この預言はやがて、ローマへの反乱が全面的な戦争に発展(ユダヤ戦争)し、その結果、エルサレムの壊滅(七〇年)、全ユダヤ人の追放(一三五年)という悲劇的な形で実現します。イスラエルの地はその後長く、他の民族のものとなったのです。

  《42 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』43 だから言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。44 この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」》
  このたとえ話は、主人の息子がぶどう園の外に放り出されて殺されるという、とんでもない理不尽な事件を通して、神の救いの御業がなされたということを示しています。イエスさまが引用しているのは詩編118編22〜23のギリシア語訳です。これは、イスラエルがつまずき、殺し、投げ捨てたイエスさまが、復活によって新しい神の民の土台とされるということを証明する聖句として、初代教団が好んで引用したものです(使徒4章11、Tペトロ2章6〜8など)。ここでは、農夫たちが《捕まえて、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった》息子(イエスさま)を、神が人間の思いを超える不思議な力をもって(復活させて)、新しい民の土台の石とされることを預言する聖句として引用されています。
  「隅の親石」というのは、家の土台に据えられる石のことではなくて、石を積んでアーチが造られる、その一番上の真ん中に据えられる石のことです。その石がしっかりとはまることによってアーチ全体が堅固な構造物となり、その石がはずされてしまうと、アーチ全体が崩れてしまう、という石です。最初は役に立たないと思われていた石が、そこに丁度はまる最も大事な石となる、それはそのことを見抜けなかった家を建てる者たちの見立て違いなのです。そのことが、ぶどう園の農夫のたとえと結びつきます。僕たちを侮辱し、息子を殺した彼らは決定的な見立て違いをしています。僕を追い返せば利益を独り占めできる、さらには、跡取り息子を殺せばこのぶどう園が自分たちのものになる、それは取り返しのつかない重大な思い違いです。
  そして、《この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう》というみ言葉は、隅の親石となるイエスさまを拒み、敵対するなら、その人は滅びに至る、ということを意味しています。隅の親石はそのように救いと滅びとを分ける決定的な意味を持っているのです。この石としっかり結び合わされることによってこそ、神による救いにあずかることができ、新しい神の民の一員となることができるのです。詩編118編の言葉をご自分のことを語っている言葉として引用することによって、イエスさまはそのようにご自分が神の救いの家の隅の親石であることを示そうとしているわけです。しかしそこに同時に示されているのは、ご自分が、家を建てる者たちから、「これはいらない、役に立たない」と思われて捨てられる、ということです。つまりこの引用は、いま目前に迫っているイエスさまの十字架の死、受難の予告にもなっています。この受難、十字架の死と、それに続く復活によって、ご自分が隅の親石となる新しい家、救いの家が建て上げられていくことをイエスさまは示そうとしているのです。
  このぶどう園はすべて主人が作り整えたものであったように、わたしたちの命、人生は、神が造り、預けてくださったものです。もしもこの農夫たちと同じように、自分の命が、人生が、神によって与えられ、整えられ、導かれていることを認めず、神の恵みを無視して、自分の人生は自分のものだと主張して、自分が主人になって生きようとしているなら、それはまさにイエスさまを十字架の死へと追いやった思いなのです。しかし、その人間の罪によるイエスさまの十字架の死によって、神はわたしたちのための救いの道を開いてくださいました。イエスさまはわたしたちのすべての罪を背負って十字架にかかり、本当ならわたしたちが受けなければならない滅びを、代って引き受けてくださったのです。そこに、わたしたちの罪に対する神の赦しの恵みが実現しています。それゆえ、わたしたちに命を与え、いろいろな実りを生むことができるように人生を整え導いてくださる神の愛と恵みをきちんと受け止め、それに応えていくことがわたしたちの信仰です。その信仰によってわたしたちは、神が備え与えてくださったこの人生というぶどう園で、神の栄光を表す良い実を結んでいくことができるのです。わたしたちがいつもあなたの働きに心を向け、その愛にふさわしくこたえることができますように。


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