2017年11月5日  全 聖 徒 主 日  マタイによる福音書22章15〜22
「神のものは神に返しなさい」
  説教者:高野 公雄 師

  《15 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。16 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」18 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。19 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」22 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。》
  きょうの聖書もまた、イエスさまが生涯の最後にエルサレムへ来られたときの出来事です。イエスさまと当時の指導者たちとの対立はもはや決定的になっていました。当時の指導者たちとは、祭司・長老・学者たちからなるユダヤの最高法院(マタイ26章59)の議員たちのことです。彼らは、群衆の騒乱を最も恐れていました。騒乱が起これば、ローマ帝国の支配下でかろうじて維持している彼らの権力も取り上げられる危険があったからです。群衆に支持されているイエスさまを取り除くには、ローマの力によるほかはありません。彼らはローマの権力に訴えることができる口実を得るために、イエスさまの言葉じりをとらえる策略をめぐらせます。
  洗礼者ヨハネを処刑して騒乱の芽を摘みとったガリラヤの領主ヘロデは、イエスさまの活動にも疑惑の目を向けていて、その手先であるヘロデ派の者たちを通して、はやくからファリサイ派の者たちと手を組み、イエスさまを殺そうと企んでいました(マルコ3章6)。
  最高法院は、ファリサイ派とヘロデ派を数人イエスさまのところに送りこみます。送りこまれた者たちは、あくまで律法の解釈をめぐる律法の教師たちの間の議論という形をとって、イエスさまの言葉を群衆の面前で引き出そうとします。彼らはまず、《先生》と丁寧に呼びかけます。この言葉は、ユダヤ教の律法の教師を指す「ラビ」に相当します。イエスさまはラビになるための正式の教育を受けていませんが、弟子たちや周囲の人々からラビとして扱われ、そう呼びかけられていました。ここでは、イエスさまのそういう立場を逆手にとって、イエスさまが群衆の面前で律法の解釈について明確な言葉で答えなければならないように仕向けるのです。
  《皇帝に税を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか》という質問は、イエスさまに、ローマの支配に対してどういう立場をとるのか、態度表明を迫っているのです。もしイエスさまが、「皇帝に税を納めることは律法に違反している」と答えれば、民衆にローマへの反乱を扇動する者として訴えることができるし、もし「律法に適っている」と答えれば、当時かなり熱心党の主張に傾斜している民衆の支持を失わせることができます。この質問にはこのような罠が仕掛けられていたのです。
  皇帝への税金は、65歳以下の男女一人あたり毎年一デナリオンと決められていました。この税を集めるために、皇帝アウグストゥスは住民登録をせよとの勅令を出したことが記されています(ルカ2章1)。この税に対して宗教上の理由からユダヤ人の中の一派が強い抵抗運動を起こしています。それは律法の順守に熱心なファリサイ派の中から起こりました。ファリサイ派の中でもとくに律法に熱心な者たちは、皇帝に税を納めることは、異教の皇帝を「主」と認めて、その支配の下に身を置くことであり、神のみを崇めることを命じている第一戒に背き、神の支配を否定することであると考えました。そして、内面では異教徒の支配を嫌いながらも積極的な政治行動から遠ざかっているファリサイ派の主流とは訣別して、武力をもってでもローマの支配を覆し、神の支配を実現しようとしました。彼らは「熱心党」と呼ばれます。彼らの律法への熱心は、異教徒のローマ人による支配に反発していた民衆の共感を呼び、多くの人々がこの運動に投じたのです。イエスさまの弟子にも「熱心党」と呼ばれるシモンがいました(マタイ10章4)。
  最高法院が税の問題を論争させるのに、税の問題では熱心党に対立しているファリサイ派とヘロデ派の者たちを送り込んだのは、イエスさまが普段この両派と厳しく対立していたからでしょう。そして、民衆からメシア的な期待を寄せられ、民衆の苦しみに深い同情を示しているイエスさまから、「皇帝に税を納めることは律法に違反する」という熱心党寄りの答えを引き出して、ローマへの反逆者として訴える口実を得ようとしたと考えられます。彼らはのちにピラトの法廷で、根拠もないのに、《この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました》(ルカ23章2)、と訴えたと伝えられています。
  彼らのたくらみを見抜いたイエスさまは、デナリオン銀貨をもってこさせて、《これは、だれの肖像と銘か》と尋ねます。デナリオン銀貨というのはローマ帝国の通貨ですが、ローマ帝国の勢力の及ぶ地中海世界全体で通用した通貨です。通貨の肖像や銘は支配権の象徴です。このデナリオン銀貨には皇帝の胸像と、「神であるアウグストゥスの子、皇帝にして大祭司なるティベリウス」という銘が刻まれていました。ローマ皇帝は神格化されていたのです。
  彼らが《皇帝のものです》と答えると、イエスはすかさず、《皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい》、と厳かに言い放ちます。それを聞いた民衆は、イエスさまの見事な答えに驚嘆し、イエスさまへの共感と支持を表明しました。送りこまれた者たちについては、《彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った》と報告されています。

  当時の人々が皇帝の像が刻まれたデナリオン銀貨を使って生活しているという事実は、ローマ皇帝の支配によって維持されている秩序の中で生活が成り立っているということであり、その意味でこの銀貨は、皇帝のものであると言えます。それでは「神のもの」とは何でしょうか。神のものには、神の肖像が刻まれているはずです。では神の像はどこに刻まれているでしょうか。《神は御自分にかたどって人を創造された》(創世記1章27)とあるとおり、わたしたち一人一人の「人間」に刻まれているのです。つまり、イエスさまは「皇帝の像が刻まれた硬貨は皇帝に返せばよい。しかし、神の像が刻まれた人間は神に帰属するものであり、神以外の何者にも冒されてはならない」と言っているのです。
  《御自分にかたどって》とは、見た目の形のことではなくて、神と向き合いになって、関わることができるように造ってくださった、ということです。人間は神によって存在を与えられている被造者であり、その全生涯のあり方について神に答えなければならない責任をもつ存在です。その意味で、人間の全存在が神のものです。わたしが所有しているものの一部が神のものであるというのではなく、わたしの存在そのものが神のものなのです。《神のものは神に返しなさい》というのは、自分の持ち物の一部を供え物として神に捧げることではなく、自分自身を神に捧げ、自分の全存在を神の御心に委ねることです。それは、自分自身とこの世界の一切を支配しておられる王としての神の権威を認め、栄光を帰する者となれということです。わたしたちのすべては、神のものであり、神に返すべきものです。そのようにイエスさまは教えられた上で、政治的な権力とその行使による秩序の存在を認めているのです。
  きょうの聖書は、皇帝に税金を納めることは正しいか正しくないか、ということを語っているのではありません。イエスさまは、《皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい》と言われました。「返す」とは、自分のものではないものを、本来の持ち主に返すということです。わたしたちもまた、自分自身のものではないと認めることです。神の似姿を刻まれた者、つまり、神のものです。そのことを認めて、その自分を本来の持ち主、神にお返しするということです。それは、あなたの命、あなたの体、あなたの人生を受け取りなおして、神の栄光を現すために安心して生きなさいということです。そして、もともとゼロであるにもかかわらず、神さまから貸し与えられているという、そういう喜びを大切にしながら、いずれぜんぶお返しする日というのを、恐れるのではなく、楽しみに待ちましょう。なぜなら、すべてお返ししたときこそが、神さまのみ心が完成するときだからです。神は、その日のために、ずうっとわたしたちに貸していたのです。それが神のみ心なのですから、あとはしっかりと、ひたすらに神の恵みにより頼み、すべてをお任せするだけです。


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