2017年11月12日  聖霊降臨後第23主日  マタイによる福音書22章34〜40
「最も重要な掟」
  説教者:高野 公雄 師

  《34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38 これが最も重要な第一の掟である。39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」》
  きょうの聖書にも、ファリサイ派とサドカイ派の人々が登場します。この両者とも当時の指導者的立場であった人々です。そのファリサイ派がサドカイ派と一緒になって、共同謀議をして、イエスさまに迫りますが、そのきっかけは、《イエスがサドカイ派の人々を言い込められた》と聞いたからです。ファリサイ派とサドカイ派はそれぞれの主義や主張が違っていたために、同じユダヤ教の中でも対立関係にありましたが、イエスさまを十字架につけるために手を結んでいきます。
  《そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか》。当時は、旧約聖書には613もの律法(掟)があるとされていました。その内の248の掟は、これをしなさいと命じるもので、365の掟はこれをしてはいけないと禁じるものでした。本来はどの掟も重要度は同じはずなのですが、あまりに煩雑になったために、もっとも基本的な掟は何かということが論じられるようになっていました。
  「どの掟が最も重要でしょうか」という質問に対して、イエスさまは《心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である》と答えられました。これは、申命記6章4〜5に、《聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい》、とある規定です。この句は最初の「聞け《シェマー》」という語から「シェマー」と呼ばれて、ユダヤ教の最も基本的な信仰告白とされてきました。信仰深いユダヤ教徒の理想は、この「シェマー」の《聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である》という言葉を口にして死ぬことでした。イエスさまが受けた質問への返答とは、このように当時の誰もが良く知っていた掟でした。
  イエスさまは、すぐに続けて、《第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』》と言われました。「隣人を自分のように愛しなさい」というのは、レビ記19章18の《復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」から来ている》から来ています。
  この掟を第一の掟である「シェマー」と結びつけて、最も重要なものとしたところに、イエスさまの新しい洞察がありました。この二つが一つにされることによって、「シェマー」も新しい意味を獲得します。それはもはや神の唯一性を告白する信条にとどまらず、「隣人を自分のように愛する」という人間の具体的なあり方が、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、あなたの神である主を愛する」ということの内容になってくるのです。
  そして、最後に《律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている》とイエスさまは言われました。「律法と預言者」とは、当時のユダヤ人にとっての「聖書」の全体を指す言葉、わたしたちにとっては旧約聖書全体という意味です。旧約聖書にはさまざまな掟が記されていますが、その中で結局はこれらの二つの教え、神への愛と人への愛ということに帰結するのだという意味です。目に見えない神への愛と、目に見える隣人への愛とは、決して別々のことではなく、一つのものなのです。ヨハネの手紙一4章20に《「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません》とあります。神への信仰の生活とはまさしくこの世における日々の隣人との関係なのです。そして、また隣人との関係とは、神との関係、すなわち信仰を表すものなのです。
  この神への愛と隣人への愛という二つの基本的な掟は、旧約聖書の全体の最もすぐれた大切なところなのだ、とイエスさまは言われました。このイエスさまの指摘は、改めてわたしたちの目を、十戒や主の祈りの構造に向けさせてくれます。十戒は律法をまとめたものですが、この十戒は二つに分けることができます。この前半は神に関する掟、つまり神への愛を規定したものです。そして、後半は隣人に関する掟、つまり隣人への愛を規定したものです。この二つの要素が十戒を構成しています。また、主の祈りも同様の構造を持っています。最初の三つの祈りはすべて、神を真実に神として、遇することができますようにという神への愛を祈るものです。また、また後半の三つはいずれも隣人の間にあって生きるわたしたちのために捧げられる祈り、隣人への愛を祈る祈りです。
  このように、イエスさまは神への愛と隣人への愛の二つで答えていますが、ユダヤ教の側でも律法の全体をこの二つの掟に要約する伝統ができていました。にもかかわらず、イエスさまと律法学者との間には根本的な違いがありました。それは愛という言葉は同じでも、愛の質の違いです。イエスさまは、自分を愛するのは自分の価値と何の関わりもないように、相手の価値とは関わりなしに、相手が自分に何を返してくれるかとは無関係に、無条件で人を受け入れ愛することを求めています。「自分のように」とは、「自分を愛するのと同じ程度に熱心に」ということではなく、「自分を愛するのと同じように無条件で」という意味です。そして、その無条件の愛の根拠は、神がそのような質の愛をもってわたしたちを愛してくださったことです。
  イエスさまは、《あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい》(マタイ5章48)と語っています。「完全」というのは、《父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる》(マタイ5章45)という言葉が説明しているように、相手の価値に関わりなく、絶対無条件の愛の質を指しています。わたしたちはそのような質の神の愛を受けて神の子とされているのだから、隣の人をそのような質の愛で愛するようになるのです。

  イエスさまは、《わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである》(マタイ5章17)と言われました。「律法を完成する」とは、律法の根本精神を成就することです。イエスさまがここで、ユダヤ教側も同意し賞賛せざるをえないようにみごとに要約して提示された根本律法を行うことです。すなわち、「隣の人を自分のように愛する」ことを内容とする神への愛を、人生の究極の関心事として、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして」生きることです。
  イエスさまは福音を体現する者として、律法をこのように要約されたことは、福音が律法をこのような仕方で受け入れていることを示します。福音は、神が人に求めておられる内容を、このように明示しています。もともと律法は福音ではないので、律法はいくら立派に要約されても、人を「神の国」に入らせる力はありません。福音が人を「神の国」に入らせ、律法を成就するのです。ここには、福音が成就する律法の内容が明示されているのです。
  この愛の掟は人間の努力で成就することはできません。隣人を助ける善い行為の合計が愛を形成するわけではないのです。それを成就するのは、聖霊によってわたしたちに注がれる神の愛だけです。わたしたちのために死んでくださったキリストを信じて受け入れるとき、神は、神への背きという根源的な罪をキリストの十字架の血によって赦し、無条件でわたしたちを受け入れ、聖霊を与えて神の子としてくださいます。この聖霊によって、神の絶対の愛がわたしたちの心に注がれて、体験されるのです。そして、この聖霊によって注がれた神の絶対無条件の愛がわたしたちの中に宿り、隣人との関わりの中で働き出すときに、初めて人は「隣の人を自分のように愛する」ことができるようになります。敵をも愛する無条件絶対の愛、神的な愛が人間の中に姿を現すのです。
  このような質の愛は、人間の生まれながらの本性とは矛盾する質のものです。人間の本性は自分を愛するだけで、隣の人は自分によくしてくれる限り愛する、すなわち自分のために愛するだけです。聖霊による神の愛は、この人間の古い本性の中に隠され、覆われてしまいがちですから、神が人に求めておられることは何かが明確に示されるのは大切なことです。イエスさまはここでそれを示してくださっているのです。神の限りない愛を示してくださったイエスさまの教えを心に留め、神と人とを愛する心を豊かにすることができるよう祈りつつ歩みましょう。


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