2017年11月19日  聖霊降臨後第24主日  マタイによる福音書25章1〜13
「十人のおとめのたとえ」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。》
  救いの時を花婿が到着した婚宴のたとえで語ることは、預言者以来の伝統です(イザヤ62章5)。また、イエスさまもご自身を花婿にたとえています(マタイ9章15)。きょうの福音は、「イエスさまの来臨」を婚礼の宴への花婿の到来という比喩で語り、その時に備える心構えを「十人のおとめ」の姿を通して教えようとするものです。
  ユダヤにおける結婚式の習慣は、かなりわたしたちのものとは違います。しかし、どの民族であっても、結婚式が「喜びの場」であることは共通しています。苦しいことや辛いことが多い毎日ですけれども、その時だけは皆が心から喜び楽しむことができる。それが結婚の祝宴だったのです。イエスさまはそのような「結婚の祝宴」をたとえとして取り上げて、わたしたちの未来を語っています。あなたがたの未来には大きな喜びがある。あなたがたを待っている大きな喜びは、たとえて言うならば婚宴だ。あなたがたはこの上なく大きな喜びへと招かれている。そのような話をしてくださっているのです。
  救い主イエスさまの来臨を待ち望むのは、キリスト教信仰の基本的なあり方です。わたしたちのこの世における生活は、不安と誘惑にみちています。しかし、その中で、滅びることのないイエスさまの約束を信じて、忍耐と希望をもって、救いの完成の日、終わりの時を待ち望みつつ生きるのです。
  婚宴には多くの人々が招かれます。そして、招かれた人々は結婚式とその祝宴のためにさまざまな役割を分担します。花嫁は、十人の友だちに花婿を迎える役目をお願いしました。それがここに出てくる十人のおとめです。《それぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く》十人のおとめは、「イエスさまの来臨」を待ち望むキリスト者の群れを指しています。
  当時の結婚式は、まず花婿が花嫁の家に迎えに来ます。そして、花嫁を自分の家に連れてきて、祝宴が行われます。そこで、花婿がまず花嫁の家に向かって来たときに迎えに出る役割を担っていたのがこの十人です。時には町外れにまで出て花婿を迎えるのです。時には花婿が遅くなることも、夜中になることもめずらしくはなかったと言われます。その時には火をともす予備の油が必要になります。
  《ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった》。花婿が、もう来るか、もう来るかと待っているのに、なかなか到着しないので、そのうちに待ちくたびれてしまったのです。花婿の到着が遅れているという、この状況は、わたしたち信仰者の置かれている状況と重なります。イエスさまの再臨がなかなか起らない、約束を信じて待っているが、だんだん待ちくたびれてしまうという中で、わたしたちもいつしか、眠り込んでしまう、まどろんでしまう、そしてその眠りの間に、イエスさまの到来を待つ信仰のともし火が消えてしまうということが起るのです。まさにそのとき、花婿としてご自分の民を迎えるために来られる「イエスさまの来臨」が起こるのです。

  《6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」》
  このたとえ話は、待っている者たちがみな眠り込んでしまうことを前提として語られています。つまり、そういうことがあるということを認めて、それでもよいと言っているのです。十人のおとめはみな、等しく婚宴に招かれていて、すでに席は用意されています。しかし、同じように招かれて同じように眠り込んでしまいながら、その十人が、《そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった》、とふたつのグループに分かれます。油の用意をしていた賢いおとめ五人は、燃えるたいまつをかざして花婿を迎え、婚宴の席に入ります。一方、油の用意をしていなかった他の五人も、たいまつをかざすのですが、すぐ油が切れて消えそうになり、油を買いに行っている間に戸が閉められてしまいます。そのように、賢く準備していた者は栄光に迎え入れられ、準備をしていなかった愚かな者は《はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない》という厳しい言葉で、外の暗闇に投げ出されます。
  その違いは、予備の油を持っているかどうかです。ただし、この予備の油は、わたしたちの用意周到さとか、わたしたちがどれだけきちんとイエスさまの再臨に備えているかということではないでしょう。わたしたちがいつも備えていることができているならば、それは「いつも目を覚ましている」ということです。しかし、この賢いおとめたちも、他の人々と同じように、弱い者であり、眠気に負けてしまう者であり、いつもちゃんと待っていることができない者だったのです。しかし彼女たちは予備の油を持っていました。その油は、そういう弱い者であっても、いざという時にはちゃんとイエスさまを迎えることができる、目を覚まして、信仰者として歩むことができる、そのことを可能にするものです。それは何なのでしょうか。
  それはもう、わたしたちが自分の内に持っている何か、自分の努力や決意によって維持している何かであるはずがないでしょう。わたしたちが信仰において眠り込んでしまうことは、神に背き逆らうことであり、わたしたちの罪です。その罪人であるわたしたちが、それでもなお信仰者として、イエスさまを喜び迎える者となることができるとすれば、それは、イエスさまによる罪の赦しの恵みによるほかありません。わたしたちが自分の中に持っている何らかの信仰ではなく、このイエス・キリストの恵みこそが、予備の油なのです。
  ここで注目しなくてはならないポイントがあります。油を用意していた五人は他の五人に油を分けてあげなかったということです。人道的には明らかに間違っているでしょう。共に分かち合い、ともし火の数を減らしてでも一緒に迎えたら良いでしょう。しかし、わたしたちはここに、お互いの人生における厳粛な一面を見なくてはなりません。つまり、他の人に分けることができるものとできないものがあるということです。他の人に代われることと代われないことがあるということです。人は他の人の代わりに生きることはできません。そして、わたしたちの信仰の歩みも、たとえ親子であろうと、夫婦であろうと、分けてやることはできません。わたしたちは、一人一人が自分の信仰を問われるのです。イエスさまの十字架が、自分のためであり、自分の罪の赦しの恵みがそこにあると受け入れるかどうかを問われるのです。愚かなおとめが賢いおとめに油を分けてくれるように頼んでも、それはできなかったのです。賢いおとめが意地悪だったというのではありません。イエスさまが来られたときに備えがなければ神の国の婚宴の席に入ることはできないのです。
  しかし、わたしたちはすでに婚宴の席にたとえられている神の国に入る者とされています。この約束を受け取っている者なのです。もうすでに祝宴の用意はされています。待つことが長くなっても、希望を放棄してはなりません。「賢いおとめ」として生きて、最終的に必ず神の備えた大きな喜びに共にあずかりましょう。救い主イエスさまが来られる。この喜びの知らせを本気で信じ、受け取るとき、わたしたちは目の前の様々な困難な状況を、信仰を持って持ちこたえることができるのではないでしょうか。わたしたちはこのイエスさまの言葉に信頼し、従っていきたい、そう願うものです。
  イエスさまはこのたとえを、《だから目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから》という言葉で結んでいます。賢いおとめたちも目を覚ましていることができなかったことが語られていたのですから、この結びはおかしいようにも思います。しかし、本当の意味で「目を覚ましている」とは、自分のどのような罪や弱さにもかかわらず、イエス・キリストの十字架による自分の罪の赦しの恵みは揺らぐことがないのだ、ということを知っていることなのです。イエスさまの苦しみと死が、このわたしのためだったことを神が示してくださり、本当の意味で目を覚ましている者にしてくださることを祈り求めつつ歩みたいと思います。


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