2017年4月9日  受難主日  マタイによる福音書27章11〜54
「イエス・キリストの受難」
  説教者:高野 公雄 師

  (当日の礼拝では読んだ27章11〜31の注釈は、今回省きます。)   《32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。33 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。35 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、36 そこに座って見張りをしていた。37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。38 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40 言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」44 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。》
  イエスさまは、ローマ帝国のユダヤ総督ピラトによって死刑の判決を受けたのち、兵士たちに引き渡され、十字架を背負わされて、死刑場であるゴルゴタの丘まで引かれていかれました。不思議なことに、イエスさまの十字架の場面には十字架刑そのものについての細かい描写がなく、ただ《彼らはイエスを十字架につけると…》とあるだけです。
  ところが、まわりの人々については細かく描写されています。通りかかりの人々はイエスさまをののしって言います。《神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い》。祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスさまを侮辱して言います。《他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから》。そして、《一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった》のです。まわりの人々の描写が詳しいのは、これを読んでいる私たち自身をそこに見出すことができるためでしょう。
  このあざけり、ののしりの根本にあるのは、「自分を救うことのできない者が神の子、救い主であるはずはない」という思いです。人々がイエスさまに求めたのは、自分を救う力のある救い主でした。そういう救い主ならば、自分の願っている救いを与えてくれると期待できるからです。《イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである、と書いた罪状書き》が掲げられていました。しかし、現実のイエスさまは、十字架にかけられている無力なメシアです。人々は期待を裏切られました。だからののしっているのです。

  《45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。47 そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。48 そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。》
  イエスさまは黙って苦しみと屈辱を受けていましたが、いよいよ息を引き取る直前に、《エリ、エリ、レマ、サバクタニ》と叫ばれました。《これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味》の言葉です。イエスさまは十字架から降りることができなかっただけでなく、神から見捨てられた者として叫び声を上げているのです。こんな言葉を耳にしたら人々は間違いなく、「この男は絶対にメシアなどではない」と確信することでしょう。しかし教会は、イエスさまをメシアと信じることの妨げにしかならないようなこの言葉をそのまま伝えてきました。
  それはなぜでしょう。それを正しく理解するためには、イエスさまの十字架の死は何だったのか、ということから考えなければなりません。神がその独り子を救い主として遣わしてくださったのに、それを理解せず、受け入れようとしない、神に敵対する人々がイエスさまを無実の罪で処刑してしまった、何とお気の毒なという話ではないのです。ここでは、私たちは傍観者ではいられないのです。イエスさまを十字架につけ、苦しめ、あざけり、殺したのは、私たちの、神に背き逆らう思いです。イエスさまの十字架の死は、神の独り子であるイエスさまが、私たちの罪とその結果をご自分の身に引き受けてくださったということです。イエスさまは単なる犠牲者ではなく、イエスさまは、本来は私たちが受けなければならないはずの裁きと死を、私たちに代わって受けてくださっているのです。その意味で、イエスさまは神に見捨てられた絶望の内にみじめに死んだのです。《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》というイエスさまの叫びは、自らの罪のゆえに神に見捨てられて絶望の内に死んでいかなければならない私たちの絶望の叫びだったのです。

  《50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。51 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。53 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。54 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。》
  イエスさまが息を引き取られた「そのとき」、つまり誰の目にも終わりに見えた「そのとき」、じつは決定的なことが始まったのです。それは、神殿の垂れ幕が裂けたことと死人が復活したという言葉で表現されている事柄です。
  「垂れ幕」とは、神殿の一番奥にある「至聖所」と呼ばれる部屋の前にかかっている垂れ幕のことです。その至聖所には、ただ一年に一回だけ、大祭司が垂れ幕を通って入ることが許されます。大祭司は罪を贖う犠牲の血を携えて入るのです。人間には罪があるゆえに、罪の贖いの犠牲なくしては聖なる神に近づくことはできない。そのことを意味する垂れ幕です。しかし、その垂れ幕を、《上から下まで真っ二つに裂け》とあるように神御自身が引き裂いたのです。罪を贖う動物犠牲の血という雛形が用いられていた時代は終わりました。まことの犠牲が屠られたからです。
  そして、《墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った》。そのような言葉によって表現されているのは「死の克服」です。このことか垂れ幕が裂かれたことと共に記されているのは、死の克服と罪の赦しは切り離せないからです。死んだあとで再び墓から出てくることができても、あるいは、そのまま永遠に長生きして死なくても、それは死の克服ではありません。それは苦しみの日々が伸びるだけでしょう。本当に必要なのは、罪の赦しであり、神との交わりが回復されることです。それを抜きにして、いかなることも死の克服にはなりません。最終的に死が克服されるために必要なのは、キリストの十字架であり、神の語り給う「あなたの罪は赦された」という言葉であり、神と人との隔てが取り除かれることなのです。
  イエスさまの十字架の死が、死人をも新たに生かす恵みの出来事であることは、きょうの個所の最後にたいへん印象的に語られています。《百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った》。百人隊長は、ローマの兵隊の隊長です。彼と、彼の指揮下で十字架の見張りをしていた兵士たちが、イエスさまの死と一連の出来事によって、「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。イエスさまを十字架につけた人々、それは私たちだと言ってきました。その人々が、イエスさまの死によって、この告白へと導かれたのです。それもやはり私たちのことです。イエスさまが、私たちの罪のために、私たちの罪を背負って、私たちに代って十字架にかかって死んでくださった。そのことによって私たちは、この十字架につけられたイエスさまこそ、まことの神の子、救い主だ、という信仰の告白へと導かれるのです。イエスさまの十字架の死は、この信仰告白へと私たちを招いています。この招きに応えていくときに、イエスさまを十字架につける者である私たちが、イエスさまの与えてくださる新しい命に生きる者とされるのです。



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