2017年4月16日  復活祭  マタイによる福音書28章1〜10
「復活の朝」
  説教者:高野 公雄 師

  今朝私たちは、イエスさまの御復活を祝う礼拝を献げるためにここに集っています。イエスさまは十字架にかかって死に、三日目に復活されました。ご復活を祝うのは、二千年前の出来事を忘れないように、復活の記念日が定められたからではありません。復活は歴史的な出来事ですけれど、歴史を突き破って、今も変わらぬ事実として私たちに関わることだからです。私たちの生きる希望、生きる目的、生きる意味はすべてこの出来事によっているのです。イエスさまの復活は、元の身体に生き返ったのではありません。イエスさまは死を打ち破り永遠に生きて、父なる神と共にすべてを支配するお方であり、私たちと共に生きるお方となられたということなのです。イエスさまはガリラヤの山で再会した弟子たちに、《わたしは天と地の一切の権能を授かっている》、また《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》と告げ知らせています(マタイ28章16〜20)。
  私たちがイエスさまを信じるということは、単なる心の問題ではありません。イエスさまを信じるということは、イエスさまに結ばれて、イエスさまが神の子であるように、神の子とされるということです。イエスさまを信じる者は、《キリストを着ている》(ガラテヤ3章26〜27)のです。イエスさまは私たちをすっぽり包んでくださって、すべての悪しき力から守ってくださいます。そして、神はイエスさまを着た私たちを、イエスさまと同じように見てくださり、ただの罪人に過ぎず、滅びるしかない私たちを、神の子としてくださるということ、イエスさまを愛されたように、私たちをも愛してくださるということです。私たちはこの驚くべき救いの恵みに与っているのです。
  そのような恵みはどこから来たのでしょうか。それは、イエスさまの十字架と復活によって、です。信仰によってイエスさまと結ばれて一つにされるということは、罪人である私がイエスさまの十字架と一つにされて死ぬということであり、それは同時に、復活のイエスさまと一つにされて肉体の死を超えた命の希望の中に生きるということです。

  《1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。》
  この日、与えられた御言葉には、イエスさまが復活の姿を二人の女性、マグダラのマリアともう一人のマリアに現されたという出来事が記されています。この「もう一人のマリア」は、イエスさまの母ではないか、という説があります。女性たちは、金曜日に十字架にかけられたイエスさまのことを思いながら、安息日の土曜日を過ごしたことでしょう。女性たちは、安息日が終わって、新しい週の初めの日、日曜日の明け方に家を出て、イエスさまの墓へ行きました。他の福音書では、女性たちはイエスさまの遺体に塗るための香料を持って墓へ向かったと記されています。
  当時の墓は横穴です。そこに遺体を納め、大きな石で入り口をふさぐのです。その石が地震と共にわきに転がされ、天使が降ってきて座りました。この石がわきへ転がされたのは、復活されたイエスさまが墓から出ていくためではありません。復活されたイエスさまは、石でふさがれていても墓穴から出るのに困りはしなかったのです。この石がわきへ転がされたのは、イエスさまの墓に来た人が墓の中を見て、空っぽであることを確認できるためでした。ですから、天使はマグダラのマリアたちに《さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい》(6節)と言ったのです。

  《5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。》
  天使の言葉を聞いて、女性たちが、イエスさまが復活されたことをすぐに理解できたとは思えません。あると思っていた場所にイエスさまの遺体がない。しかも見たこともない天使が復活したと言う。頭の中は混乱の極みだったことでしょう。イエスさまの復活というのは、誰かに言われて、すぐに「それは良かった。何と素晴らしいことか」と言えるようなことではありません。死んだら終りだ、みんなそう思います。しかし、イエスさまは終らなかったのです。
  ここで《復活なさった》と訳されている言葉は、正確には「復活させられた」という受身形です。イエスさまは御自分の力で復活したのではありません。父なる神が復活させたのです。イエスさまは神の御子であるから自らの力で復活したということならば、罪人である私たちが復活できるはずはないということになってしまいます。しかし、イエスさまは父なる神から救いの恵みを受けて復活させられたのです。だから、信仰においてイエスさまと一つにされ、イエスさまを着た私たちは、父なる神によって、イエスさまと同じ救いの恵みによって「復活させられる」ことになるのです。

  《7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。》
  女性たちは、弟子たちに伝えよと言われたので、何が何だか分からないままに、とにかく伝えなければならない。そう思って急いで墓を立ち去り、走って行ったのです。女性たちは、《恐れながらも大いに喜び》と記されています。天使に会って、イエスさまが復活されたと告げられた、それは聖なる体験で、恐ろしかった、けれども告げられた内容は、愛するイエスさまの復活という、途方もない喜びの知らせでした。この恐れと大きな喜びは、私たちの信仰の基本的な姿です。この喜びは、神からの《恐れることはない》という語りかけによってのみ与えられる喜びなのです。

  《9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」》
  女性たちは、この喜ばしい知らせを伝えるために弟子たちの所に行く途中で、復活されたイエスさまに出会いました。私たちの場合も、復活のイエスさまと出会って初めて復活を信じるのではありません。まず「イエスさまは復活された」と告げる言葉が与えられ、その御言葉を信じて歩み出す中で復活されたイエスさまとの出会いが与えられるのです。
  《すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われた》。この「おはよう」という訳は、軽く感じられます。口語訳の「平安あれ」の方がまだ良いと思います。もともと「喜べ」という意味のギリシア語「カイレ」で、挨拶に用いられている言葉です。朝だから「おはよう」と訳したのでしょう。ユダはイエスさまを売り渡すとき、《先生、こんばんは》(26章49)と言って接吻しました。これも同じ「カイレ」ですが、夜だから「こんばんは」と訳されています。
  女性たちは復活されたイエスさまに出会って、イエスさまを拝みます。《ひれ伏した》という言葉は、のちに神を「礼拝する」という意味になっていきました。女性たちはイエスさまを神の子として信じていましたが、今まで神として礼拝することはありませんでした。けれども、この復活の朝、女性たちはイエスさまの足を抱いて、神として礼拝したのです。キリスト教会の礼拝は、この復活されたイエスさまを神として拝む、そこに成立したものなのです。
  復活されたイエスさまが弟子たちに会ったとき、イエスさまはすべてを赦すお方として会ったのです。だから弟子たちの召命の出発地《ガリラヤ》で会うのです。イエスさまが捕らえられたとき、弟子たちはイエスさまを見捨てて逃げました。もう弟子とは言えない彼らなのに、天使は《弟子たち》と呼び、イエスさまは《わたしの兄弟たち》と呼んでくださるのです。私は確かに十字架にかけられて死んだ。しかし、私はいま生きている。あなたたちのつまずきや背信は私の十字架において清算された。もう一度、やり直そう。それが復活されたイエスさまが弟子たちと出会われたということなのです。
  私たちは、地上の生活にあってはさまざまな問題を抱え、困難も苦しみも嘆きもあります。そして、やがて死を迎えます。しかし、私たちはすでにイエスさまの復活の命の中に生き始めているのです。死はすでにイエスさまの復活によって打ち破られました。死さえも打ち破って私たちに永遠の命を与える神が、私たちを守ってくださり、導いてくださるのです。



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