2017年6月11日  三位一体主日  マタイによる福音書28章16〜20
「弟子たちを派遣する」
  説教者:高野 公雄 師

  《16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。》
  復活されたイエスさまは墓を見に来た女性たちに、《わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい》(28章10)と伝言を託しました。弟子たちは命じられたとおりガリラヤに行き、山で復活したイエスさまに再会しました。そして弟子たちは《イエスに会い、ひれ伏した》、と聖書は告げます。「ひれ伏した」と訳された言葉は、「ひざまずいて礼拝する」という意味で、ユダヤ教では人間に向かって用いられる言葉ではありません。これは、弟子たちが初めて主イエスさまを礼拝した時でした。弟子たちはイエスさまと3年間生活を共にしましたけれど、イエスさまを拝んだことはありませんでした。イエスさまに《あなたがたはわたしを何者だと言うのか》と問われ、《あなたはメシア、生ける神の子です》(16章15〜16)と告白したことがありましたが、その時も、弟子たちはイエスさまの前にひれ伏して拝んではいません。しかし、復活されたイエスさまと再び出会った弟子たちは、イエスさまの前にひれ伏して拝んだのです。それは、弟子たちが、この復活された主イエスこそ、まことの神の子、神そのものであると信じたということです。ここに、キリスト教は誕生したのです。
  聖書の神は天地を造られた神ただ一人であり、ほか者を神として拝むことは十戒において厳しく禁じられていました。にもかかわらず、弟子たちは主イエスを拝みました。復活された主イエスこそ、天地を造られた神の子、神そのものであることを知らされたからです。
  キリスト教の根本教理は、三位一体と言われるものです。天地を造られた父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神が、ただ一人の神であるという教理です。この三位一体という教理は、本当に難しいです。どうして、三が一で一が三なのか。父・子・聖霊の三人の神がいるというのなら分かりやすいですし、また、神は天地を造られた父なる神だけで、イエス・キリストは神ではないというのなら、これはこれで分かりやすいです。しかし、アタナシウス信条は、そうではないといいます。これは根本教理ですから、これを信じ、受け入れなければキリスト教にならない訳ですが、これを納得できるような形で説明することは、不可能ではないかと思います。それは、この三位一体という教理は、わたしたちが信じ、礼拝している神の本質に迫る教理だからです。神の本質というものを、人間がその知性で完全に捉えることはできることではないのです。三位一体とは、理解すべきことである以上に、信ずべきことなのだと言わざるを得ません。
  三位一体という言葉は聖書の中にはありません。あとでキリストの教会が自分たちの信仰を言い表すために用いた言葉です。しかし、もちろん、三位一体の信仰はすでに聖書の中にあるのです。それを示す大切な個所の一つが、復活の主イエスを弟子たちが礼拝したというこの個所です。
  聖書はここで《しかし、疑う者もいた》、とも記しています。イエスさまが神であると言って良いのか、イエスさまを礼拝して良いのか、疑う者がいたのです。三位一体の教理は、325年のニケア公会議において確定されるまで、いや確定されてのちも、さまざまな議論が繰り返されました。その議論が収束していく中で、最も力を持ったのは、キリスト者の日常の信仰生活、礼拝生活だったのです。主の日の礼拝の中で、代々の聖徒たちは主イエス・キリストを拝み、ほめたたえています。この復活された主イエスと出会った時の弟子たち以来の礼拝のあり方、主イエスの前にひれ伏し拝んでいるという事実が、さまざまな議論に勝利したのです。
  この「しかし、疑う者もいた」というのは、復活の主イエスに出会った十一人の弟子たちの中に何人かの疑う者がいたというだけではありません。いつの時代のどのキリスト者の群れにも疑う者がいることを見越しているのです。あの人、この人が疑っているというのではなく、このわたしの中にも疑う心があるということです。誰もが苦難の日に、イエスさまは本当に復活したのか、神は本当にこの自分を愛しておられるのかという疑いに陥ることがあるでしょう。しかし、大切なことは、そのような疑う者が混ざっているような、不完全な、欠けの多い群れであるにもかかわらず、復活の主は、この群れに大切な務めを委ね、命じられたということです。わたしたちの群れが完全になったら、この主イエスの命令に従えるということではなくて、不完全な、欠けの多いわたしたちが、この主の命令に従っていく、その歩みの中で、わたしたちは確かな主の守りと栄光を味わっていくということなのです。

  《18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」》
  イエスさまの復活とは、神によって高く上げられて、《天と地の一切の権能》を有する方となられたことを意味します。このことは、《全能の神の右に座り》(26章64)とか、《天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、ひざまずく名》、すなわち《主》という名を与えられた(フィリピ2章10〜11)とも言い表されています。
  19〜20節の主イエスの命令は、「復活の主の大命令」と呼ばれるものです。この復活の主の命令に従って、弟子たちは実際に全世界へと出て行きました。この復活の主の大命令は、二千年前に、復活の主が弟子たちに一度だけ告げたのではありません。この主イエスの大命令を代々の教会は自分に告げられた言葉として受け取り続けてきたのです。
  主イエスは《行って、すべての民を》と言われました。国家も民族も超えて、「すべての民を」です。ここには、国家も民族も超え、天地を造られ、すべての被造物をそのみ手の中に治められる神の憐れみが示されています。主イエスは、ユダヤの民だけが救われれば良いとは考えませんでした。すべての民が、神と和解し、神の救いに与ることを求めたのです。そのみ心を実現するために、弟子たちを全世界へ遣わされたのです。
  もちろん、これは、わたしたちが皆、海外伝道に行かなければならないという意味ではありません。わたしたちが身近な所で出会う、関わりを持つ、共に生きるあの人この人、それが「すべての民」の一人です。わたしたちはそれらの人々のところに、主イエスによって遣わされていくのです。しかし、主イエスが「すべての民」と言われた広さ、豊かさを忘れてはなりません。「すべての民」を小さく、狭くすることはあってはならないことです。
  さて、主イエスはここで、三つのことを命じられました。《すべての民を主イエスの弟子としなさい》。《父と子と聖霊の名によって洗礼を授け》なさい。《命じておいたことをすべて守るように教えなさい》。この三つです。この三つは別々の命令ではなく、一つのことを告げていると見て良いでしょう。それは、第一番目の「すべての民を主イエスの弟子とする」ということです。主イエスの弟子となるということは、父・子・聖霊の名によって洗礼を受けるという道を通らなければなりませんし、主イエスの教えを学び、それを守る歩みを続けなければならないからです。ここで主イエスが「命じておいたこと」とは、とくに5〜7章の「山上の説教」にまとめられている教えを言うのでしょう。
  わたしたちは主イエスの弟子です。主イエスの弟子にとって大切なことは、弟子となるということと、弟子であり続けるということです。一度、洗礼を受けて主イエスの弟子になれば、それですべてが終わりという訳にはいかないのです。生涯、主イエスの弟子であり続けなければ、信じた甲斐がありません。主イエスの弟子であり続けるためには、主イエスの教えを聞き続け、学び続け、その教えを実践していかなければなりません。そしてこのことは、わたしたちはキリスト者としての訓練を受け続けなければならないということでもあろうかと思います。
  この訓練というのも、たんに自分の努力によって成し遂げるということではありません。主イエスは、この三つの大命令に続いて、《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》と言われました。主イエスが共にいてくださる、この《インマヌエル》(1章23)の事実こそ、わたしたちの一切の伝道、信仰生活、訓練がなされていく根拠、力の源です。復活の主がわたしたちと共にいてくださっています。ですから「すべての民」に向かって一歩を踏み出していけるのですし、み言葉を受けることができるのですし、訓練を受けて主の弟子としての歩みをまっとうしていくことができるのです。そして、そのような歩みを続けていく中で、いよいよ、主イエスがわたしたちと共にいてくださっていることが、確かなこととしてわたしたちに分かってくるのです。ここに、わたしたちの信仰の歩みの確かな保証があるのです。



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