2017年3月5日  四旬節第一主日  マタイによる福音書4章1〜11
「荒れ野での試み」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。》
  イエスさまはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたときに聖霊を注がれ、「主の僕」としての召命を受けると同時に、「神の子」としての啓示を受けたのでした。そして、その同じ聖霊に促されて、イエスさまは荒れ野に入り、そこで啓示への理解を深め、福音宣教への召しを確認されたのです。
  荒れ野の誘惑の内容は、イエスさまの「神の子」という資格をめぐる試みです。サタンの三つの試みに共通している点は、イエスさまに苦難の道を捨てさせ、力と栄光の道を選ばせようとする誘惑、すなわち、「主の僕」としての道ではなく、力をもって立つ政治的メシアの道を歩ませようとする誘惑であったことです。
  マタイとルカはこの誘惑を荒れ野での試みにまとめていますが、この誘惑はイエスさまが地上の生涯においてさまざまな形で体験された試練の要約でもあります。イエスさまは《わたしが種々の試練に遭ったとき》(ルカ22章28)と言っています。天からのしるしを求めるファリサイ派の人たちの声に、イエスさまを王として立てようとする民衆の声に、そして、十字架の道を行こうとされるイエスを諌める弟子の声に、イエスさまはサタンのこの誘惑を見たのでした。この誘惑の声に対しては、それが弟子ペトロからであろうと、「サタンよ、退け」と厳しく対決されたのです。
  この「誘惑物語」において、イエスさまはサタンの三つの誘惑を聖書の言葉を用いて退けますが、その言葉はみな申命記から引用されています。申命記は、エジプトを脱出したイスラエルが四十年間荒れ野をさすらったのち、ようやく約束の地を目の前にしたとき、モーセがイスラエルに改めて契約の言葉に聞き従うように求めた言葉です。その申命記においては、荒れ野の四十年のさすらいは、イスラエルが御言に聴き従うかどうかを神が試された期間であるとされています。《あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた》(申命記8章2)。

  《3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」》
  イエスさまは四十日間、昼も夜も断食して飢えたときに、「誘惑する者」が来て、神の子なのだから、神の力をもってこれらの石をパンに変えて、自分の命を救ったらどうかと誘います。ここで神の力は奇跡を行う力であるとされ、しかもそれを自分のために用いるように誘われているのです。
  この誘惑に対して、イエスさまは申命記の言葉で答えます。上で引用した個所に続く言葉です。《主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口からでるすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった》(申命記8章3)。イエスさまは自分の命を救うことよりも、神の言葉に従うことを優先させることによって、誘惑を退けました。マタイは、このようなイエスさまを語ることによって、地上の各地に散在して暮らす神の民に同じ生き方と覚悟を促すのです。

  《5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。》
  神の子だというなら、神殿の屋根から飛び降りて無事であることを見せれば、民衆は信じるであろうと、悪魔は聖書(詩編91編12)を引用して誘惑します。ファリサイ派の人たちや律法学者たちも、彼らのメシア理解にもとづきて、しばしばイエスさまにメシアのしるしを要求しています。
  イエスさまは再び申命記の言葉で、この誘惑を退けられます。《あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない》(申命記6章16)。イスラエルは荒野を旅していたとき、水がないのでモーセと争い、モーセが本当に神から遣わされた者かと問題にされ、結局、モーセは民の要求に応えて、ナイルを打った杖で岩を打ち、岩から出た水を与えます。それで、その地はマサ(試し)とメリバ(争い)と呼ばれるようになりました(出エジプト17章1〜7)。こうして、イエスさまがメシアであるしるしを示すように要求するユダヤ教側からの攻撃を、聖書を用いて退けます。
  ここで悪魔も聖書の言葉を用いています。主を試みることも信仰も、聖書の言葉に従って行動しようとすることでは一見同じです。しかし、主を試みる行為は人間の側の欲求を神が満たすかどうかを試す行動ですが、信仰は自己が無となって神の信実だけを根拠として行動することですから、この両者はまったく別物です。
  「主を試してはならない」という申命記の戒めは、モーセ律法の根本律法とされる《聞け、イスラエルよ。われらの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい》(申命記6章4〜5)という「シェマー」のすぐ後に置かれていて、この戒めの裏側をなしています。

  《8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。》
  これもイエスさまが内面において戦い、その生涯を通して戦われた試練です。地上のすべての民と富を思うままに支配する権力こそ、英雄たちや王たちが切に求め、死力を尽くして戦い取ろうとしたものに他なりません。その権力を獲得するためには、他者を支配するむき出しの力を「最高の原理」として、すなわち「神」として拝まなければなりません。それは神に敵対する力であるサタンを神として拝むことです。
  長年、異教の諸帝国の強大な力の支配に虐げられてきたイスラエルは、それに打ち勝つ力をメシアに期待するようになっていました。メシアは世のすべての国を支配し、イスラエルをその支配にあずからせる者でなければならないのです。そのようなユダヤ教のメシア期待に、イエスさまはサタンの誘惑を直感し、厳しく退けるのです。実際、この時代のイスラエルは武力によってローマの支配を倒すという誘惑に勝てずに、滅亡を招くのです。
  イエスさまは三度申命記の言葉を用いてこの誘惑を撃退されます。《「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある》。この「サタンよ、退け」という激しい言葉は、受難の秘義を語り始められたイエスさまを諫めたペトロに向かって発せられています(マタイ16章23)。「主の僕」として受難の道を歩むイエスさまは、ペトロのメシア期待の中にサタンの誘惑を見て、激しく退けられるのです。
  「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という言葉は、申命記6章13に見られますが、この節も「シェマー」(申命記6章4〜5)のすぐ後ろに出てくる言葉で、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という根本的な戒めを言い直したものに他なりません。こうしてみると、三つの誘惑はみな、《あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない》(出エジプト20章3)という十戒の第一戒をめぐる戦いであることが分かります。   イエスさまの場合は、「神の子なら」という誘惑の言葉が示唆しているように、イエスさまが父から受けられた啓示と召命とは別のメシアの道へと誘う誘惑でした。この誘惑を、イエスさまは第一戒の精神に固く留まることで克服されるのです。その勝利によって、イエスさまは神の子としての立場で、神を父として宣べ伝える宣教に立たれることになります。   わたしたちも地上の歩みの中でたえず誘惑にさらされています。自己の欲望の充足とか、自分の栄光とか、他者を支配する力とかを神とする誘惑がつきまといます。この誘惑に対して、わたしたちはイエス・キリストにおいて現わされた神だけを神とし、この神に自己を委ねきることで勝利するのです。ですから、わたしたちはいま、神の言葉によって生きる生活へと立ち帰り、すでにサタンに打ち勝っているイエスさまに従って行くのです。


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