2017年2月5日  顕現節第5主日  マタイによる福音書5章13〜16
「地の塩 世の光」
  説教者:高野 公雄 師

  《13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。》
  イエスさまは「あなたがたは地の塩である、世の光である」と言われますが、この「あなたがた」とは、この「山上の説教」を聞いている弟子たちと、イエスさまに付いてきた群衆です。ということは、イエスさまは、この礼拝に集まっている私たちにも語りかけているということです。
  イエスさまの弟子と言ってもみな《無学な普通の人》(使徒言行録4章13)でしたし、周りにいた群衆は《いろいろな病気や苦しみに悩む者》(マタイ4章23)でした。社会的に見ればたいして立派ではなく、多くは何の役に立たない、いてもいなくてもいいと思われていたような人々です。その人たちに、そして私たちに、イエスさまは「あなたがたは地の塩である、世の光である」と宣言されます。地の塩でも世の光でもない者に「塩となれ、光となれ」と、努力目標を示しているのではありません。あなたがたは地の塩であるから、塩味を出すのは当然であり、光であるから周囲を照らすのは当然だということです。それほどに、あなたがた一人ひとりは、神の目に、無条件にかけがいのない大切な塩であり、すばらしい光なのだ、とイエスさまは言われるのです。私たちが優れているからではありません。私たちが弱さや欠点をもっているにもかかわらず、イエスさまの救いのわざのゆえに、私たちはすでに神の子とされているということです。
  しかし、地の塩、世の光と聞くと、そんな大役を自分たちができるはずがない、と私たちはすぐに自分の方に目を向け直してしまいます。でも、イエスさまのお言葉から耳をそむけないで、イエスさまが私たちのために行なってくださった救いのわざの無条件の恵みを心に留めて、この招きを深く聞く者でありたいと思います。イエスさまはこの言葉によって、クリスチャンとはどういう存在なのか、どういう立場にあるのかを明らかにしておられるのです。
  それでは、あらためて「地の塩」のたとえから見ていきましょう。「地」は「世の光」の「世」と同じく、私たちの生きている人間社会のことです。神もイエスさまも人の尊厳もないがしろにされている現実を指しています。塩はいろいろな意味でなくてはならないものです。塩は食物に味をつけ、腐敗を防ぎます。それになにより、塩は人の体に欠かせないものです。また、塩は、聖書に限らず多くの文化の中で宗教的な「清め」に用いられています。旧約聖書では、神殿への供え物に必ず塩を添える決まりでした。《穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ》(レビ記2章13)。
  このように、「塩」はこの世に味わいを添え、腐敗を防ぎ、清潔を保つ働きを意味しています。あなたがたは地上でこのような役割をすでに担っている、とイエスさまは言います。塩は少量でも、味を支配します。私たちは塩なのですから、塩である生き方を放棄してはなりません。塩がなければ、人間は生きていけないし、地(社会)も成り立たないのです。もし私たちがその塩味を失たら、《何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである》。これは、聖書にたびたび出てくる神の裁きの表現です。しかし、この文の本来の趣旨は、神の裁きよりも、むしろイエスさまの力強い約束にあると思われます。イエスさまの塩は弟子たちの内に失われることはない、塩は塩味を失うことはなく、その働きを必ず成し遂げるということです。塩のたとえは、これから語られるイエスさまの教えを真剣に聴いて実行するように促す前置きとなっているのです。

  《14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」》
  イエスさまは塩のたとえに続いて、「あなたがたは世の光である」と呼びかけます。「光」は世界を明るく照らし、温かみをもたらします。日光は塩と同様に殺菌の働きをしますし、植物たちは太陽の光によって育ちます。また、どの宗教でも、「光」は真理を表わす象徴です。旧約聖書では、「光」はまずは神の御言葉を指しています。《あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯》(詩119編105)とあるとおりです。新約聖書では、「光」はイエス・キリストを指します。《イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」》(ヨハネ8章12)、また《わたしは光として世に来た》(12章46)と言われるとおりです。「あなたがた」が「世の光」であるのは、「まことの光」であるイエスさまを内に宿しているからです。つまり、イエスさまは光として世に来られ、その光を隠すことなく、身を挺して光を世に輝かされましたが、今は弟子が「世の光」として、イエスさまがなされた業を継承していくのです。《そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい》。この光を人々の前に明らかにすることが弟子の務めです。
  それは、《人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである》。「立派な行い」の「立派な」は、ふつう「良い」と訳されています。これは「美しい」とか「役に立つ」という意味での実際的な「良さ」を表わす言葉です。イエスさまが「わたしは良い羊飼いである」とおっしゃったときの「良い」と同じ言葉です。「良い行い」というと、社会通念にのっとった道徳的な行為というように受けとられがちです。しかし、ここで求められる「良さ」「立派さ」は、個々の行為を指すよりは、人を救う神の愛と信実を身に受けて、隣人愛へと方向付けられた新しい生き方を意味しているようです。ここで語られる「立派な生き方」は、子としての私たちに父から恵みによって与えられるものです。
  きょうの第一朗読では、《飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる》(イザヤ58章10)と、飢え悲しむ人、苦しみ悩む人への心配りが強調されています。このような愛のわざを行うことで、「自分」がではなく、「天の父」があがめられることを「あなたがた」は喜ぶのです。この新しい生き方は、私たちが自分の立派さを世に誇るためのものではなく、それによって「父」の素晴らしさを世の人々に指し示すための生き方なのです。イエスさまの弟子は、イエスさまの言葉に従う生き方によって、イエスさまを遣わし、私たちを生かしている天の父の栄光を、世界に指し示すのです。
  地の塩、世の光として生きることは、私たちが何か人の目を引くような立派なことをすることではないし、また、そうできなくてもよいのです。「御国の福音」とは、「神は決してあなたがたを見捨ててはいない。神は王としてあなたがたを救ってくださる」という恵みの知らせです。私たち一人ひとりが自分の置かれている場で、この福音に生かされる者となって、その喜びをもって生きるならば、この「土の器」(Uコリント4章7)の中にも父の恵みの光を宿し、「世の光」となり、「一隅を照らす」ことになるのです。復活の主イエスさまの霊を宿す者、聖霊の油を宿す者は、どんなに小さくても明かりをともしているのです。私たちの集まりは小さいですけけれど、明かりをともし続けます。きっとそのともし火は人々を照らす、と固く信じます。
  《ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く》。また、《山の上にある町は、隠れることができない》。この世に生きる私たちの経験からすれば、愛のともし火は容易に無視されるし、吹き消されてしまうように見えます。しかし、燭台の上のともし火が部屋を明るく照らし、温めるように、山の上にある町の明かりが旅人に道を示し、力を与えるように、イエスさまのともした「ともし火」は消されたり、隠されたりすることなく、必ずや赤々と人々を明るく照らします。これこそ、聖書が語る私たちの希望の源です。
  この後に続くイエスさまの説教は、イエスさまが教えられた「立派な、良い生き方」とはどのようなものであるのかをまとめています。それは、「殺すな、姦淫するな、離縁するな、偽証するな」という神の戒めが徹底的に深化・内面化されているだけでなく、「敵を愛せよ」という人間の倫理が思い浮かべもしなかった高みにまで達し、さらに善悪の範疇を超えて、生活の必要をいっさい神の配慮に委ねて生きる信頼の生活や、隠れて祈る祈りの生活まで含んでいます。それが私たちにできるか否かというように、私たち自身に目を向けてしまっては、イエスさまの説教は理解できません。神さまの無条件、絶対の恵みに心を突き動かされた者のみが、これを神の要求・律法としてではなく、恵みの言葉・福音として素直に聴くことができるのです。
  私たちのために十字架にかかって死んで、復活されたまことの地の塩、まことの世の光であるイエスさまのもとで、その恵みによって生かされる者となることによって、私たちは地の塩、世の光となったのです。役に立つ者となったのです。だから、この与えられた塩味を、光を、失うことなく歩んでいきたいのです。そのために、まことの地の塩、世の光であるイエスさまのみもとに、常に留まって離れない者でありたいと思います。


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