2017年2月12日  顕現節第6主日  マタイによる福音書5章21〜37
「ファリサイ派にまさる義」
  説教者:高野 公雄 師

  《13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。》
  きょうの福音は、殺人、姦淫、離婚、偽証、復讐、そして愛敵の6項目について、イエスさまの「御言葉」が語られます。そのうちで、殺人、姦淫、偽証の三つは、モーセの十戒にあるものです。離婚(申命記24章1〜4参照)と復讐(出エジプト21章24参照)と愛敵(レビ記19章18参照)に関するものは十戒にはありませんが、それぞれ律法として伝えられていたものです。イエスさまはこれらの六つの項目のいずれについても《あなたがたの聞いているとおり、昔の人は・・・と命じられている。しかし、わたしは言っておく。・・・》という形式を用いて、ご自分の「新しい解釈」を加えています。この形式のために、この個所はアンチテーゼとか反対命題と呼ばれます。
  これら六つの戒めを貫く中心テーマは、律法の正しい理解とその実践です。このことは、6項目を論じたあとに語ったこの言葉が示しています。《だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい》(5章48)。この言葉は、ルカ6章36では、《あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい》と換えられており、「完全な者」とは「憐れみ深い者」を意味することが分かります。また、こうした戒めの理解の根拠について、こう記されています。《あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである》(5章45)。このように、すべての戒めは「あなたがたの父が憐れみ深い」ということが根拠になっているのですから、すべての戒めをここから理解することが肝要です。
  今週と来週の2回の礼拝でこの6項目の反対命題を読むのですが、すべての命題をひとつひとつ扱うことはできませんので、今週は最初の「腹を立ててはならない」を、来週は最後の「敵を愛しなさい」を読むことで、すべての命題を貫くイエスさまの心を聞いていくことにしましょう。

  《21 あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。》
  律法とは、文字に書かれている法律のようなもので、これに違反した場合には罰せられました。しかし、行為として外に現れないものは罰の対象にはなりません。たとえば、「神を敬う」と言っても、会堂の礼拝に出る、安息日の決まりを守る、その他のいろいろな決まり事をきちんと守っていればそれで済みます。外側の行為が問題であって、その人の内面でほんとうに心から「神を敬う」かどうかは問われませんでした。「罪」とは「律法に違反した行為」のことであって、人間の内面的な心の有り様のことではなかったのです。
  外側や行為だけを規制する旧約の律法は、それだけでは人の心までも変える力がありません。ところがエレミヤは、そのような「文字に記された」律法に違反する行為のことだけではなく、人間の心の有り様、内面的な「心の罪」にも神の目が向けられる「新しい契約」の時代が来ることを預言しました。ただし、新しい契約の時代に律法は無効になる、あるいは廃れる、と言ったのではありません。そうではなく、《わたし(主)は律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す》(エレミヤ31章33)と預言しました。
  さて、「殺人と怒り」についてです。「人を殺した者は裁きを受ける」は、出エジプト20章13にあります。また「兄弟」というのは、もともとは同じユダヤ人同士のこと、「同胞」の意味でしたが、キリスト教の時代になると、すべての人間は神の前に平等だから、どんな人をも殺してならないという意味に理解されるようになってきました。モーセの教えでは、殺人は裁判にかけられて場合によっては死刑にされました。ところがイエスさまは、実際に人を殺さなくても、心に怒りや憎しみを抱いてもいけない。「ばか」と言っただけでも「天国の裁判所で罰せられる」(塚本訳)、「愚か者」と言うと地獄(ゲヘナ)の火で焼かれる、と言われます。行為としての殺人は、証人がいれば地上の裁判所でも罰することができます。しかし地上では、誰も人の心の底までは見えませんから、これは神の法廷で裁かれ罰せられなければならないのです。兄弟に対して怒る者は殺人に等しいと厳しい御言葉を発しておられますが、これは、イエスさまは「愛の心を失うな」という大事な点を教えるためにこういう鋭い表現で語られたものと思われます。
  殺人に続く以下の項目でもそうですが、ここでイエスさまは、旧約の律法の解釈を外面的な行為、すなわち犯罪として罰することのできる「外から見える」行為としてではなく、人の心の中の問題へと「内面化」して見ておられます。このような「内面化の論理」は、これ以後のキリスト教の歴史で繰り返し表われてきます。宗教改革の時にも同じことが行なわれました。行為としての殺人から、行為にいたる前の段階での「心の内面」において、すでに憎しみや怒りとなって殺人が始まっている。この「心で生じる殺意」がなくなれば、行為としての殺人もなくなるはずです。しかし、これがなくならないといつまで経っても殺人はなくなりません。

  《23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。》
  兄弟とよい関係を維持するために、今度は、自分が腹を立てている場合ではなく、相手が自分に「反感を持っている」場合の話です。まず仲直りする努力をしなさいと言います。無条件で神に受け入れていただいているのだから、相手を無条件に受け入れることを求められます。主の祈りが「私たちに罪を犯した者を赦しましたから、私たちの犯した罪をお赦しください」と祈るよう教えているとおり、祈りも神の恵みの場において成り立つのです。

  《25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。26 はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。》
  さらにイエスさまは、今度は、誰かと裁判沙汰のもめ事があって、その人と一緒に裁判所へ行く時には、なんとかして途中でその人と和解しなさいと教えておられます。そうでないと、会堂の役人に牢に入れられるかもしれない、しかも「最後の一円を払うまで(フランシスコ会訳)、決してそこから出ることはできない」、と言われます。クァドランスは少額のローマの青銅貨です。この「あなたを訴える人」は貸したお金の返済を求めているようです。この当時は、今と違って、刑事事件でなくても、民事事件でも裁判で負けたら罰せられる場合がありました。ここで、「和解」というのは、仲直りしなさいという意味ではなくて、裁判沙汰で訴えられる前に相手側と「示談で」(塚本訳)きれいさっぱり縁を切りなさいということです。これが原語の意味です。

  「殺すな」の段落は、以上のように、三つの分節を持って、神の無条件の恵みの場における和解によって敵意そのものを滅ぼし、そうすることで「殺すな」という律法の下に成り立つ義よりもはるかに「まさる義」を提示しているわけです。これを聞くと、私たちはそれは出来ない、と自分の弱さに戻ってしまいますが、そういう人の弱さを神もイエスさまもよくご存じです。イエスさまは自分の命を代価として支払って、私たちのために神との和解を成し遂げてくださいました。私たちはこの神の無条件の恵み、人間に対する信実の心に身を任せるしか生きる道はありません。私たちはそこでしか生きられないのですから、私たちに和解が出来ようが出来なかろうが、神の恵みの場にとどまり、神の深い憐れみに押し出されて、私たちもまた、少しでも隣人に憐れみ深く生きようとするほか生きようがないのです。
  この律法の解釈の部分はイエスさまの教えの中心とも言えます。イエスさまは、安息日の癒しやその教えで、旧約の律法を無視したり、否定しているような印象を与えますが、実はそうではありません。イエスさまこそ、旧約聖書の律法を「生きた人間」として完全な姿で体現されました。しかも、この律法は、裁きと共に、イエスさまの十字架の罪の赦しをも同時に含んでもいるのです。イエスさまが説く戒めは、鋭く人の内面を裁くけれども、その人を殺すことをしないで、逆に赦して人の心を根底から活かし強めるのです。
  イエスさまは言います。《わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである》(5章17)。「完成する」というのは「ほんとうの意味を明らかにする」ことであり、そうすることで「完全にする」ことです。これらの律法が、イエスさまという人格的な存在の中で「完成され、成就された」と告げるのです。イエスさまこそ、神の人間に対する愛と憐れみを完全な姿で顕してくださったお方です。このような「愛の姿」こそ、旧約の律法が人間に求めているものにほかなりません。ですから、イエスさまの心を心とする人は、《律法学者やファリサイ派の人々の義にまさ》(5章20)る道を得ているのです。


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