2017年2月19日  顕現節第7主日  マタイによる福音書5章38〜48
「敵を愛しなさい」
  説教者:高野 公雄 師

  きょうの福音は「復讐してはならない」と「敵を愛しなさい」の二つの段落ですが、「敵を愛しなさい」は対立命題集全体の頂点であり結論でもありますので、この段落に集中してイエスさまの心を聞いていきたいと思います。

  《43 あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。》
  「隣人を愛しなさい」という戒めは、レビ記9章18に明記されていて、ラビたちもこれをもっとも大切な戒めとして重視していました。しかし、「隣人を愛し、敵を憎め」という一対の表現は旧約聖書にはありません。
  ここで「隣人」というのはイスラエルの同胞のことです。たしかにイスラエルは自分たちの間に寄留している異邦人にも愛を及ぼすことを知っていました(申命記10章19など)。けれども、イスラエルに敵対する民や、イスラエルの中にあっても信仰深い者に敵対する傲慢な者たちに対しては敵意と憎しみを持つことが、敬虔な者にとって当然のこととされていました(詩編などに多数)。それに対してイエスさまはこう言われます。

  《44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。》
  イエスさまは、自分自身のように隣人を愛せよという戒めを、心を尽くし力を尽くして主なる神を愛することと一体の戒めとして、これを最重要の戒め、律法と預言者全体を成就する最高の戒めとされます(マタイ22章34〜40)。この点についてはイエスさまとラビたちは一致しています。ところが、「隣人」とは誰かという点で違ってきます。この違いについては、「善いサマリヤ人」のたとえ(ルカ10章25〜37)が印象深く語っています。
  ユダヤ教では「隣人」とはイスラエルの民のことでした。それ以外の人たちは、関わりを持たないか、蔑視や敵意をもって対すべき相手でした。そのような「敵」に対する無視とか蔑視とか敵意は、神とその民(隣人)への愛の裏側として、むしろ神から求められているとされたのです。
  それに対してイエスさまは、そういう人々をも、自分自身のように愛すべき「隣人」とされるのです。律法に熱心な義人たちから「罪人」と蔑視されている人々はもちろん、迫害を加えてくる異教徒や不信心な者たちまで「隣人」の中に入れてしまいます。ここで「敵を愛しなさい」というときの「敵」とは、まず第一にこのような宗教上の敵対者が考えられていることは、「自分を迫害する者のために祈りなさい」という句が、「敵を愛しなさい」という句と一対になって用いられていることからも分かります。宗教的な敵意ほど妥協なく激しいものはありません。その敵に対して、呪いではなく祝福を祈ることは、敵を愛する愛、善をもって悪に報いる愛の最高の表現です。
  もちろん「敵」とは宗教上の敵対者だけではありません。人生においては深刻な利害の対立から、また歴史においては激しい民族とか階級の対立から、個人的に、また集団的に敵と遭遇しなければならない状況が多々あります。そのような敵と対するとき、イエスさまの弟子には「敵を愛しなさい」という言葉が聞こえてくるのです。
  では、そのように敵をも愛すべき隣人として受け入れる力はどこから来るのでしょうか。それが以下の個所で述べられます。

  《45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。》
  敵を愛すること、すなわち仲間か敵かの区別なく、いかなる相手をも隣人として愛することを求める根拠として、イエスさまは「天の父」がそのように人を愛する方であるという事実を語り出されます。イエスさまは、太陽が昇り雨が降るという同じ日常的な現象を父の絶対の愛のしるしとされます。それは、イエスさまが父の絶対的な恵みの次元に生きておられるからです。ここで「絶対的」というのは、「相手の価値や資格に無関係に」という意味です。天の父は、神に対して義人であろうが罪人であろうが、人間の側の価値や資格に無関係に愛を注ぎ、救いに至る力を与えてくださるのです。神は、わたしたちが敵であったときにわたしたちを愛して、わたしたちの救いのために御子を与えてくださいました(ローマ5章10)。神はあなたをもわたしをも愛して、救いに招いてくださっています。
  ユダヤ人にとって「義」とは律法にかなった生活ですから、「正しい者にも正しくない者にも」というのは、律法にかなった生活をしている者にも、律法と無縁な生活をしている者(ユダヤ人社会で「罪人」と呼ばれていた人々)にも、神の愛は同じように注がれ、同じように救いが提供されているということを意味します。この言葉は、ユダヤ人に向かって「律法とは無関係に」、ただ神の恵みによって与えられる救いを告知していることになります。生命そのものであり源泉である愛から発して、受ける資格のない対象に向かって働いている姿の愛を恵みと言います。
  このように、父が相手に対して無条件の愛を注がれる方であるから、その恵みによって生かされる者は、父と同じように相手の価値に無関係に愛さないではいられません。父と同じ絶対愛に生きる者にしてはじめて、父と同じ質の愛、同じ質の命に生きる者、すなわち天の父の「子」と呼ばれることができるのです。この間の消息をイエスさまは、「敵を愛しなさい。敵を愛することが父の子となることである」と、端的な表現で語られます。敵を愛することこそ、父の無条件絶対の愛の典型的な表現だからです。

  《46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。》
  神の愛の絶対性を際立たせるために、すぐに続いて、人間の愛がいかに相対的なものであるかが語られます。ふつう人間は、相手が自分に対してどのような価値があるかに応じて相手に対します。自分を愛してくれる者は愛して、自分を憎む者は憎みます。自分の仲間には挨拶して連帯を確認しますが、敵対者には挨拶もせず、一切の関わりを拒否します。このように人間の愛はふつう相手の出方に応じた形をとります。すなわち、人間の愛の質は相対的です。イエスさまは、このような相対的な愛は「徴税人」や「異邦人」でも実行していることで、そのような質の愛を示したからと言って、何も特別に神に喜ばれるとか、天の父の子となることはないと明言します。

  《48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。》
  ここで、マタイの対立命題集は頂点に達します。この節は、43節から始まった「敵を愛しなさい」という段落のまとめであるだけでなく、《あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない》(5章20)という序言で始まった対立命題集全体の結論となっています。
  まず、43節以下の「敵を愛しなさい」という段落の文脈では、敵を愛する根拠として父の愛の絶対性が示され、それと対比して人間の愛の相対性を示します。そして、あなたがたの愛は相対的なものであってはならず、父の愛のように絶対的なものでなければならないと説くことになります。したがって、ここでイエスさまが「あなたがも完全な者となりなさい」と言うとき、「完全」とは愛の絶対・無条件性を意味することになります。すなわち、あなたがたが隣人を愛するとき、相手が敵だから悪をもって対抗するというように、あなたがたの愛から出る善行に、相手によっては悪が混じるというようなことはあってはならない、あなたがたはいかなる場合にも無条件に愛によって善を為さなければならない、という意味になります。
  次に、「敵を愛しなさい」という言葉が、「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」の頂点として、対立命題集の最後に置かれているという文脈からすれば、この節は同時に対立命題全体の結論となります。イエスさまの弟子には、「律法学者やファリサイ派の人々の義」にまさって、「天の父が完全であられるように完全な者」になることが求められることになります。
  ただし、「敵を愛しなさい」という言葉は、決して倫理的な教えではなく、イエスさまがそこに生き、告知された神の恵みの支配の表現です。そして、その神の恵み、すなわち《聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれ》るとき(ローマ5章5)、わたしたちは無条件・絶対の愛の場に生かされていることを知るのです。そのような質の愛がわたしたちの生きる場であることを体験します。聖霊の愛は内的な力であって、外面的な行為規範ではありません。どのような形で敵を愛することが実現するかは、その状況ごとに聖霊が働いて実現してくださるのです。この聖霊の愛によって、「罪を憎んで人を憎まず」という格言が、深い意味で実現します。


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