2017年6月18日  聖霊降臨後第2主日  マタイによる福音書6章24〜34
「野の花・空の鳥」
  説教者:高野 公雄 師

  《24 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」》
  「富」とはお金や財産など、この世の値打ちのあるものですが、ここでは、「富」は偶像神として擬人化されて用いられています。そのために、「富」と訳さずに、原語をそのまま「マモン」とカタカナ書きしている聖書もあります。神という主人に仕え、同時に富という主人に仕えることはできない、とイエスさまは言います。「仕える」は「奴隷」という言葉の動詞形です。当時は奴隷制の社会ですから、奴隷と主人の関係にたとえて語っているのです。奴隷にとって主人は絶対的な存在です。奴隷は自分が何をしたいかということは問題ではなく、まず第一に主人のことを考えます。富が主人であるということは、富を第一にすることです。お金や財産を蓄えるにはどうしたらよいか、ということを第一に考えるのです。お金のためならするが、そうではないならしない。これは奴隷が、「主人のためになるならするが、そうでないならしない」と考えるのと同じあり方です。「神」という主人と、「富」という主人を同時に持つことはできないのは、この二人の主人の命令が正反対と言ってよいほどに違うからです。ことに現代社会は経済的価値を神として拝み、人間の尊厳を犠牲として捧げていますから、イエスさまの教えは鋭い警告と受け止めるべきです。イエスさまは、《金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい》(19章24)とも言っています。生活の思い煩いによって、神の国がおろそかになってはなりません。
  富は、自分を支え保ってくれます。神もまた、自分を支え保ってくれます。ルターは富を持つことと、富に仕えることは違うと言っています。わたしたちはこの社会の中で富なしに生きていくことはできません。しかし、そのことは富を主人として、これに仕えることではありません。「仕える」とはまったく主人の支配の元に立ち、それをまったく頼みとして生きることです。富を主人とするのは、富やそれによる名誉の魅力、富の誘惑によって引き付けられるからでしょう。何を価値あるものとして追求するのかという心の在り方が問われます。神を主人とするのは、神がその愛によって、神を愛することができるようにしてくださるからです。奴隷は主人によって買い取られましたが、わたしたちも神がイエス・キリストによって買い取ってくださった者です。イエスさまはわたしたちのすべての罪を背負って十字架にかかって死なれました。わたしたちはこのイエス・キリストにおいて神の恵み、愛と信実とを見ます。わたしたちはその恵みの中で人生の本当の拠り所を見出すのです。

  《25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」》
  この段落は「だから、言っておく」、と始まって、前の節とつながっています。前の節では、わたしたちを本当に支え、養い、導いてくれるものは天に、神の恵みにこそあるということを聞きました。
  イエスさまは、「何を食べようか、何を着ようか」と日々の生活に必要なものについて思い悩まないではいられないわたしたちに対して、「思い悩むな」と言います。その理由は、まず《命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか》ということです。このみ言葉も神の恵みを前提としているのです。「命」と「体」が中心的なものであって、「食物」と「衣服」はそれを支える周辺的なものです。中心的なものが神によって守られているなら、周辺的なものも与えられないはずはありません。天の父なる神が、わたしたちを恵み、その命と体を養い、守り、育んでいてくださることを信じて生きるときに、わたしたちは食物や衣服などへの思い悩みから解放されるのです。イエスさまは、その神の恵みに目を向けなさいと言うのです。
  さらにイエスさまは、空の鳥が養われ、野の花が装われているのをよく見なさいと言います。しかし、鳥は悠々と空を飛んで遊んでいるように見えますが、その日の食べ物を得るために必死でしょう。花が美しく咲いているのも、花粉を飛ばし、虫を呼んで、種を保存するためです。ここでは鳥や花を、思い悩みを持たずに生きている例として示しているのではありません。イエスさまはここで、《あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる》に、《あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか》と付け加え、《今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる》では、《まして、あなたがたにはなおさらのことではないか》と付け加えています。神が空の鳥や野の花を養い、装っていてくださるなら、あなたがたにはなおさら、それ以上の養い、装い、導きを与えてくださらないはずはないということです。鳥や花の姿を通して、神の養い、守り、導きの恵みを示しているのです。ここで大切なことは、神が、わたしたち人間のことをどれだけ大事に思っているかということです。神は、ご自分が造った自然を、大事に養い、装ってくださいます。しかしそれ以上に、《あなたがたの天の父》である神はわたしたち人間を愛し、養い、守り、導いてくださるのです。イエスさまの「思い悩むな」という励ましは、あなたがたの父である神の恵みを信じ、その恵みを拠り所として歩みなさいということです。
  だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな、とイエスさまは呼びかけます。《それはみな、異邦人が切に求めているものだ》。異邦人とは、まことの神を知らない人々のことです。独り子をお与えになったほどに、この世を愛された神を知らないのであれば、自分で自分の命と体とを守り、養い、支えていくために、さまざまな地上の富を得ようと必死になります。しかし、イエスさまは《あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである》と言われます。イエス・キリストによってわたしたちの父となってくださった神の愛と配慮を知っている者は、神がわたしたちに必要なものをすべてご存じであり、それを与えてくださることを信じて生きるのです。
  イエスさまは続けて言います。《何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる》。「これらのもの」とは、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」という、命と体を支えるためにわたしたちが持っていなければと思うもの、拠り所としているものです。しかしイエス・キリストによって神の子とされているわたしたちは、命と体を支えるために自分が何かを得ようとするのではなくて、まず、神の国と神の義とを求めていくのです。その神の恵みによる支配と信実のみ心によってこそ、わたしたちの命と体が支えられ、養われ、育まれていくからです。そのために必要なものを神は必ず加えて与えてくださるのです。
  ところで、その神の恵みに信頼して歩むのであれば、全く思い悩みのない歩みになるかというと、そうではありません。《だから、明日のことまで思い悩むな、明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である》とあります。信仰を持ち、神に信頼して生きる歩みにおいても、その日その日の苦労はあります。この地上を歩む限り思い悩みがなくなるということはありません。しかし、「あなたがたの天の父」である神は、本当に必要なものを与え、備えてくださるお方です。そのように神に信頼して生きる者は、その日の苦労をその日の苦労として背負っていく力を与えられます。思い悩みがなくなってしまうことはありませんけれども、自分の命と体のことを天の父なる神に任せるとき、思い悩みを神に委ねるとき、信頼と安心の内に生きることができます。わたしたちにそのような歩みを与えるために、イエス・キリストはこの世に生まれ、身をもって人に対する神の信実の愛を表わし、そして今、「思い悩むな」とわたしたちに語りかけます。わたしたちは、思い悩みをすべて神に委ねることが許されているのです。


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